前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。
或る時、西国から京へ昼夜兼行で上ってきた飛脚がいた。「幡磨(はりま)ノ国ノ印南野(いなみの)」=「現・兵庫県明石市から加古川市周辺」に差し掛かった頃、疲れもあり日暮れてもきたのでどこか休めるところはないかと探してみたが人里から離れた野っぱらなので人家はない。ただ、山中を切り開いて作られた山田の見張りに用いる粗末な番小屋を見つけた。その夜はそこで休憩しようと中へ入った。もっとも、山間部耕作地の山田は「万葉集」編纂時期すでに当り前にあり歌にも詠まれている。
「君がため山田の沢(さわ)にゑぐ摘(つ)むと雪消(ゆきげ)の水に裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れぬ」(日本古典文学全集「万葉集3・巻第十・一八三九・P.51」小学館)
とはいえ人里から離れているため「幽玄・わび・さび」というより夕暮れを過ぎるとどことなく怪しげな雰囲気に包まれる。
「山ざとは冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば」(「古今和歌集・巻第六・三一五・源宗干朝臣・P.89」岩波文庫)
何にせよ人里離れた田んぼの中なので太刀(たち)を身に付け着物も着たまま、眠らずただ横になって過ごしていた。その夜更け。ふと耳を澄ますと、遥か西の方から金を打ち鳴らし念仏を唱えながら大勢の人々がやって来る音が聞こえてきた。古屋から外を覗いてみると沢山の人が火を灯しながら僧侶や下人らと共にこちらへ歩いてくるらしい。その装束からこれは葬送の行列かと気づいた。とはいうものの飛脚が休んでいる小屋のすぐそばまでやって来たので何ともいえない気味悪さを感じさせる。
「夜打深更(ようちふく)ル程ニ、髴(ほのか)ニ聞ケバ、西ノ方ニ金(かね)ヲ扣(たた)キ念仏(ねんぶつ)ヲシテ、数(あまた)ノ人遥(かるか)ヨリ来(きた)ル音(おと)有リ。男、糸怪(いとあやし)ク思(おもひ)テ、来ル方(かた)ヲ見遣(みや)レバ、多(おほく)ノ人、多(おほく)ノ火共(ひども)ヲ燃(とも)シ烈(つれ)テ、僧共ナド数(あまた)金(かね)ヲ打チ念仏ヲ唱(とな)ヘ、只ノ人共モ多クシテ来ル也ケリ。漸(やうや)ク近ク来ルヲ見レバ、早ク葬送(さうさう)也ケリト見ルニ、此ノ男ノ居(ゐ)タル奄ノ傍(かたはら)糸近ク、只來(きたり)ニ来レバ、気六借(けむつかし)キ事無限(かぎりな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.158」岩波書店)
葬列は小屋からおよそ二、三十メートル辺りまで来た。飛脚は物音を消してじっと様子を窺う。それにしても葬送なら普通は、前もって墓地に穴を掘って儀式を済ませておき、野辺送りのためにそれとわかる「験(しるし)」をはっきり立てておくものだろうに、確か日暮れにはそのようなものはなかったはず。体を緊張が走る。
「葬送為(す)ル所ハ、兼(かね)テヨリ皆其ノ儲(まうけ)シテ験(しるし)キ物ヲ。此レハ、昼(ひ)ル然(さ)モ不見(みえ)ザリツレバ、極(きはめ)テ怪(あやし)キ事カナ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.158」岩波書店)
見ていると、多くの人々が集まり埋葬を終えたようだ。ところがさらに、どこからか「鋤(すき)・鍬(くは)ナド持(もち)タル下衆共(げすども)、員不知(かずしら)ズ出来(いでき)テ」、忽ちのうちに墓〔塚〕を築き上げ、その上に「卒塔婆(そとば)」を立てた。そこで一連の葬送儀式をすべて済ませた一向は再び大勢で帰っていった。
「多(おほく)ノ人集(あつま)リ立並(たちなみ)テ、皆、葬畢(はうぶりは)テツ。其ノ後、亦鋤(すき)・鍬(くは)ナド持(もち)タル下衆共(げすども)、員不知(かずしら)ズ出来(いでき)テ、墓ヲ只築(つき)ニ築テ、其ノ上ニ卒塔婆(そとば)ヲ持(もて)来(き)テ起(たて)ツ。程無ク皆拈畢(したためはて)テ後ニ、多(おほく)ノ人皆返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.158」岩波書店)
驚きを隠せない飛脚は彼らが築いて去った後の墓〔塚〕を呆然と見ていた。すると墓〔塚〕の上が動いたように思えた。錯覚かと思い見直してみると確かに何かが動いている。不可解なことだと見ているうちに、墓〔塚〕の上の土の中から裸の人間が這い出してきた。そして肘など体のあちこちに点いた火を吹き払いながら走り出した。なぜわかったのか知らないが飛脚が隠れている小屋に向かって一目散に走ってくる。
「見レバ、此ノ墓ノ上動(はたら)ク様(やう)ニ見ユ。僻目(ひがめ)カト思(おもひ)テ吉(よ)ク見レバ、現(あらは)ニ動ク。『何(いか)デ動クニカ有ラム。奇異(あさまし)キ事カナ』ト思フ程ニ、動ク所ヨリ只出(ただいで)ニ出ヅル物有リ。見レバ、裸ナル人ノ、土ヨリ出(いで)テ、肱(かひな)・身ナドニ火ノ付(つき)タルヲ吹掃(ふきはら)ヒツツ、立走(たちはしり)テ、此ノ男ノ居タル奄ノ方様(かたざま)ニ只来(きたり)ニ来(きた)ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.158~159」岩波書店)
飛脚はその時になって墓地には必ず鬼がいると言われていることを思い出す。これはまさしく鬼に違いない。見つかったのだ。血塗れになって喰い殺されるほかないだろう。が、何もせず手をこまねいてただ喰い殺されるのを待つよりは少しでも抵抗することはできよう。とはいえ粗末で小さいこの小屋の中に入ってこられてしまえば絶望的なまでに打つ手はない。その前に先に打って出て鬼を斬るべし。持っていた太刀を抜き、走ってくる鬼に向かって飛脚も走り、正面衝突のごとく鬼を斬った。と、ふいに鬼の姿は消え失せた。飛脚はその足で人里まで走って逃げた。里へ出ると近くの民家の陰で夜明けを待った。人々が起き出してきたのをつかまえて昨夜に起きた事態を語り、こうして逃げてきたといった。すると、若くて威勢のいい里の男性らが名乗り出て、その正体を暴きに行こうと大勢で出かけることになった。正体を暴き、はっきりさせることが、妖怪〔鬼・ものの怪〕消滅の条件とされていた。
昨夜、謎の葬送が行われ墓〔塚〕の土の中から鬼が出現した、という付近に到着した。調査してみたところ、特に変わったところはない。墓〔塚〕はなくその上に立っているはずの「卒塔婆(そとば)」も見当たらない。鬼の体から出ていたという火が散った跡もない。ただ、巨大な「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」が切り殺されて転がっているばかりだった。
「『去来(いざ)、行(ゆき)テ見ム』ト云(いひ)テ、若キ男共(をのこども)ノ勇(いさみ)タル数(あまた)、男(をとこ)ヲ具(ぐ)シテ行(ゆき)テ見ケレバ、夜前(よべ)葬送(さうさう)セシ所ニ、墓モ卒塔婆(そとば)モ無シ。火ナドモ不散(ちら)ズ。只、大キナル野猪(くさゐなぎ)ヲ切殺(きりころ)シテ置(おき)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.159」岩波書店)
前回・前々回に取り上げた「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」の変身譚と比較するとかなり壮大な演出がなされている。ところでこの「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」の出現場所だが、山間部を切り開いて作った山田だという点に感心を寄せてみよう。そこは人間の手が入るより遥か以前、もともと「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」の生息地ではなかったかと思うのである。大和朝廷成立以前、野生動物にはまだまだ獰猛な種が多かった。貨幣にも獰猛な種に属するものとそうでないもの〔悪貨と良貨との関係〕があるように。
また狸も、狐や蛇と同じく岩場や塚穴に棲息する習性を持つ。いずれにせよ稲作農耕生活にとって鼠駆除に役立つとはいえ、一方で守護神として祭り上げられ、他方で厄介者扱いされる。熊楠は明治時代にばたばたと姿を消した貴重な動植物をたくさん取り上げて抗議しているが、少なくとも「今昔物語」の時代、それらは妖怪〔鬼・ものの怪〕として姿を垣間見せるだけでよかった。熊楠は自然生態系の乱調が一度ならず二度三度と繰り返されるごとにどのような事態が発生してくるか、よく見えていた稀有の研究者だった。当時は農村の労働者が耕していた農耕地帯だが、剥き出しの資本主義がどんどん推し進められるに連れて下層階級はばたばた死んでいく。そしていずれ上流階級に属する人々が自ら鋤・鍬を持ち、働きに出るほかなくなると。
「小生初めこの姦徒より承しは、証拠品百五十点とか三百点とかありしとのことなり。しかるに小生知るところにては、熊野三山の荒廃はなはだしき今日、新宮には多少足利氏時代の神宝文書あるも、本宮には何にもなく、那智には神宝三、四件をのこすのみ。目録は多少存するが(それも小生手許にはあるが、那智山には只今ありやなしや分からず)、何たる証拠などはなし。しかるに百五十点も三百点もあるとは、実に稀代のことと存じおり候ところ、今回彼輩入獄の理由は、噂(うわさ)によれば文書偽造の廉(かど)なる由。大抵かかる古文書は、文体前後を専門の文士に見せたら早速真偽は分かるものに候。しかるに、かかる胡乱(うろん)過多の証拠品を取り上げ、日本有数の山林をたちまち下付せしこと、はなはだ怪しまれ申し候。かの徒の書上(かきあげ)中にも、三万円は運動費(悪く言わば賄賂)に使うた、と書きあり。しかして、色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.381~382』河出文庫)
「新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。その極(きょく)鳥羽上皇に奉仕して熊野に来たり駐(とど)まりし女官が開きし古尼寺をすら、神社と称して公売せんとするに至れり。もっとも如何(いかが)に思わるるは、皇祖神武天皇を古く奉祀せる渡御前(わたるごぜん)の社をも合祀し、その跡地なる名高き滝を神官の私宅に取り込み、藪中の筍(たけのこ)を売り、その収入を私(わたくし)すと聞く」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.491』河出文庫)
「合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳朴の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.497~498』河出文庫)
妖怪〔鬼・ものの怪〕はただ単なる幻覚に過ぎないとしても幻覚には幻覚出現の条件がある。例えば或る人間が過去に殺人を犯したとする。しかしそれを否認する行為はしばしば見られる態度であって意識下に抑圧されるだけのことだ。しかしそうではなく、殺害について、頭からなかったことととして自分自身信じ切ってしまう「排除」というケースがある。
「むしろこの精神過程全体は、無意識的なものがどんな具合に関与しているか、という点に関して特徴づけられるのである。抑圧と排除とは別なものである」(フロイト「ある幼児期神経症の病歴より」『フロイト著作集9・P.416』人文書院)
排除されたものはその後どうなるのか。
「患者の内界に抑圧された感覚が《外界》に投影される、という言い方は正しくない。むしろわれわれは、内界で否定されたものが《外界から》再び戻ってくると考えるべきである」(フロイト「シュレーバー症例」『フロイト著作集9・P.338』人文書院)
貨幣並みに変身できる妖怪〔鬼・ものの怪〕にもなれず生息域をどんどん奪い取られていくばかりの狐や狸。彼らはもはや共存方法を見失い今や白昼堂々と住宅地に出没し、時には衝突している。また狸の場合、首都近郊の住宅地なら道路の側溝沿いに移動を繰り返す性質がある。
基本的に人間と動植物とは、共存できる生活環境が常に保たれていて始めて、異常気象の不意打ちに見舞われる頻度は低くなる。なおかつ異常気象といっても生態系の自己修復力はそもそも相当強固なものだ。これまでも生態系自身の自己修復力によって人間社会はかろうじて現状維持されてきた。ところが生態系に対するダメージが地球規模で生じた時、一体何が起こるのか。その光景を見た人間はまだ誰一人としていない。
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或る時、西国から京へ昼夜兼行で上ってきた飛脚がいた。「幡磨(はりま)ノ国ノ印南野(いなみの)」=「現・兵庫県明石市から加古川市周辺」に差し掛かった頃、疲れもあり日暮れてもきたのでどこか休めるところはないかと探してみたが人里から離れた野っぱらなので人家はない。ただ、山中を切り開いて作られた山田の見張りに用いる粗末な番小屋を見つけた。その夜はそこで休憩しようと中へ入った。もっとも、山間部耕作地の山田は「万葉集」編纂時期すでに当り前にあり歌にも詠まれている。
「君がため山田の沢(さわ)にゑぐ摘(つ)むと雪消(ゆきげ)の水に裳(も)の裾(すそ)濡(ぬ)れぬ」(日本古典文学全集「万葉集3・巻第十・一八三九・P.51」小学館)
とはいえ人里から離れているため「幽玄・わび・さび」というより夕暮れを過ぎるとどことなく怪しげな雰囲気に包まれる。
「山ざとは冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば」(「古今和歌集・巻第六・三一五・源宗干朝臣・P.89」岩波文庫)
何にせよ人里離れた田んぼの中なので太刀(たち)を身に付け着物も着たまま、眠らずただ横になって過ごしていた。その夜更け。ふと耳を澄ますと、遥か西の方から金を打ち鳴らし念仏を唱えながら大勢の人々がやって来る音が聞こえてきた。古屋から外を覗いてみると沢山の人が火を灯しながら僧侶や下人らと共にこちらへ歩いてくるらしい。その装束からこれは葬送の行列かと気づいた。とはいうものの飛脚が休んでいる小屋のすぐそばまでやって来たので何ともいえない気味悪さを感じさせる。
「夜打深更(ようちふく)ル程ニ、髴(ほのか)ニ聞ケバ、西ノ方ニ金(かね)ヲ扣(たた)キ念仏(ねんぶつ)ヲシテ、数(あまた)ノ人遥(かるか)ヨリ来(きた)ル音(おと)有リ。男、糸怪(いとあやし)ク思(おもひ)テ、来ル方(かた)ヲ見遣(みや)レバ、多(おほく)ノ人、多(おほく)ノ火共(ひども)ヲ燃(とも)シ烈(つれ)テ、僧共ナド数(あまた)金(かね)ヲ打チ念仏ヲ唱(とな)ヘ、只ノ人共モ多クシテ来ル也ケリ。漸(やうや)ク近ク来ルヲ見レバ、早ク葬送(さうさう)也ケリト見ルニ、此ノ男ノ居(ゐ)タル奄ノ傍(かたはら)糸近ク、只來(きたり)ニ来レバ、気六借(けむつかし)キ事無限(かぎりな)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.158」岩波書店)
葬列は小屋からおよそ二、三十メートル辺りまで来た。飛脚は物音を消してじっと様子を窺う。それにしても葬送なら普通は、前もって墓地に穴を掘って儀式を済ませておき、野辺送りのためにそれとわかる「験(しるし)」をはっきり立てておくものだろうに、確か日暮れにはそのようなものはなかったはず。体を緊張が走る。
「葬送為(す)ル所ハ、兼(かね)テヨリ皆其ノ儲(まうけ)シテ験(しるし)キ物ヲ。此レハ、昼(ひ)ル然(さ)モ不見(みえ)ザリツレバ、極(きはめ)テ怪(あやし)キ事カナ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.158」岩波書店)
見ていると、多くの人々が集まり埋葬を終えたようだ。ところがさらに、どこからか「鋤(すき)・鍬(くは)ナド持(もち)タル下衆共(げすども)、員不知(かずしら)ズ出来(いでき)テ」、忽ちのうちに墓〔塚〕を築き上げ、その上に「卒塔婆(そとば)」を立てた。そこで一連の葬送儀式をすべて済ませた一向は再び大勢で帰っていった。
「多(おほく)ノ人集(あつま)リ立並(たちなみ)テ、皆、葬畢(はうぶりは)テツ。其ノ後、亦鋤(すき)・鍬(くは)ナド持(もち)タル下衆共(げすども)、員不知(かずしら)ズ出来(いでき)テ、墓ヲ只築(つき)ニ築テ、其ノ上ニ卒塔婆(そとば)ヲ持(もて)来(き)テ起(たて)ツ。程無ク皆拈畢(したためはて)テ後ニ、多(おほく)ノ人皆返(かへり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.158」岩波書店)
驚きを隠せない飛脚は彼らが築いて去った後の墓〔塚〕を呆然と見ていた。すると墓〔塚〕の上が動いたように思えた。錯覚かと思い見直してみると確かに何かが動いている。不可解なことだと見ているうちに、墓〔塚〕の上の土の中から裸の人間が這い出してきた。そして肘など体のあちこちに点いた火を吹き払いながら走り出した。なぜわかったのか知らないが飛脚が隠れている小屋に向かって一目散に走ってくる。
「見レバ、此ノ墓ノ上動(はたら)ク様(やう)ニ見ユ。僻目(ひがめ)カト思(おもひ)テ吉(よ)ク見レバ、現(あらは)ニ動ク。『何(いか)デ動クニカ有ラム。奇異(あさまし)キ事カナ』ト思フ程ニ、動ク所ヨリ只出(ただいで)ニ出ヅル物有リ。見レバ、裸ナル人ノ、土ヨリ出(いで)テ、肱(かひな)・身ナドニ火ノ付(つき)タルヲ吹掃(ふきはら)ヒツツ、立走(たちはしり)テ、此ノ男ノ居タル奄ノ方様(かたざま)ニ只来(きたり)ニ来(きた)ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.158~159」岩波書店)
飛脚はその時になって墓地には必ず鬼がいると言われていることを思い出す。これはまさしく鬼に違いない。見つかったのだ。血塗れになって喰い殺されるほかないだろう。が、何もせず手をこまねいてただ喰い殺されるのを待つよりは少しでも抵抗することはできよう。とはいえ粗末で小さいこの小屋の中に入ってこられてしまえば絶望的なまでに打つ手はない。その前に先に打って出て鬼を斬るべし。持っていた太刀を抜き、走ってくる鬼に向かって飛脚も走り、正面衝突のごとく鬼を斬った。と、ふいに鬼の姿は消え失せた。飛脚はその足で人里まで走って逃げた。里へ出ると近くの民家の陰で夜明けを待った。人々が起き出してきたのをつかまえて昨夜に起きた事態を語り、こうして逃げてきたといった。すると、若くて威勢のいい里の男性らが名乗り出て、その正体を暴きに行こうと大勢で出かけることになった。正体を暴き、はっきりさせることが、妖怪〔鬼・ものの怪〕消滅の条件とされていた。
昨夜、謎の葬送が行われ墓〔塚〕の土の中から鬼が出現した、という付近に到着した。調査してみたところ、特に変わったところはない。墓〔塚〕はなくその上に立っているはずの「卒塔婆(そとば)」も見当たらない。鬼の体から出ていたという火が散った跡もない。ただ、巨大な「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」が切り殺されて転がっているばかりだった。
「『去来(いざ)、行(ゆき)テ見ム』ト云(いひ)テ、若キ男共(をのこども)ノ勇(いさみ)タル数(あまた)、男(をとこ)ヲ具(ぐ)シテ行(ゆき)テ見ケレバ、夜前(よべ)葬送(さうさう)セシ所ニ、墓モ卒塔婆(そとば)モ無シ。火ナドモ不散(ちら)ズ。只、大キナル野猪(くさゐなぎ)ヲ切殺(きりころ)シテ置(おき)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第三十六・P.159」岩波書店)
前回・前々回に取り上げた「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」の変身譚と比較するとかなり壮大な演出がなされている。ところでこの「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」の出現場所だが、山間部を切り開いて作った山田だという点に感心を寄せてみよう。そこは人間の手が入るより遥か以前、もともと「野猪(くさゐなぎ)」=「狸(たぬき)」の生息地ではなかったかと思うのである。大和朝廷成立以前、野生動物にはまだまだ獰猛な種が多かった。貨幣にも獰猛な種に属するものとそうでないもの〔悪貨と良貨との関係〕があるように。
また狸も、狐や蛇と同じく岩場や塚穴に棲息する習性を持つ。いずれにせよ稲作農耕生活にとって鼠駆除に役立つとはいえ、一方で守護神として祭り上げられ、他方で厄介者扱いされる。熊楠は明治時代にばたばたと姿を消した貴重な動植物をたくさん取り上げて抗議しているが、少なくとも「今昔物語」の時代、それらは妖怪〔鬼・ものの怪〕として姿を垣間見せるだけでよかった。熊楠は自然生態系の乱調が一度ならず二度三度と繰り返されるごとにどのような事態が発生してくるか、よく見えていた稀有の研究者だった。当時は農村の労働者が耕していた農耕地帯だが、剥き出しの資本主義がどんどん推し進められるに連れて下層階級はばたばた死んでいく。そしていずれ上流階級に属する人々が自ら鋤・鍬を持ち、働きに出るほかなくなると。
「小生初めこの姦徒より承しは、証拠品百五十点とか三百点とかありしとのことなり。しかるに小生知るところにては、熊野三山の荒廃はなはだしき今日、新宮には多少足利氏時代の神宝文書あるも、本宮には何にもなく、那智には神宝三、四件をのこすのみ。目録は多少存するが(それも小生手許にはあるが、那智山には只今ありやなしや分からず)、何たる証拠などはなし。しかるに百五十点も三百点もあるとは、実に稀代のことと存じおり候ところ、今回彼輩入獄の理由は、噂(うわさ)によれば文書偽造の廉(かど)なる由。大抵かかる古文書は、文体前後を専門の文士に見せたら早速真偽は分かるものに候。しかるに、かかる胡乱(うろん)過多の証拠品を取り上げ、日本有数の山林をたちまち下付せしこと、はなはだ怪しまれ申し候。かの徒の書上(かきあげ)中にも、三万円は運動費(悪く言わば賄賂)に使うた、と書きあり。しかして、色川村のみの下付山林を伐らば二十万円村へ入る、一戸に割つけたら知れたものなり。このうち十二万円は弁護士に渡す約束の由。つまり他処の人々が濡れ手で栗を攫(つか)み、村民はほんの器械につかわれ、実際一人につき二、三銭の益を得るのみ」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.381~382』河出文庫)
「新宮中の古社ことごとく合祀し、社地、社殿を公売せり。その極(きょく)鳥羽上皇に奉仕して熊野に来たり駐(とど)まりし女官が開きし古尼寺をすら、神社と称して公売せんとするに至れり。もっとも如何(いかが)に思わるるは、皇祖神武天皇を古く奉祀せる渡御前(わたるごぜん)の社をも合祀し、その跡地なる名高き滝を神官の私宅に取り込み、藪中の筍(たけのこ)を売り、その収入を私(わたくし)すと聞く」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.491』河出文庫)
「合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳朴の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.497~498』河出文庫)
妖怪〔鬼・ものの怪〕はただ単なる幻覚に過ぎないとしても幻覚には幻覚出現の条件がある。例えば或る人間が過去に殺人を犯したとする。しかしそれを否認する行為はしばしば見られる態度であって意識下に抑圧されるだけのことだ。しかしそうではなく、殺害について、頭からなかったことととして自分自身信じ切ってしまう「排除」というケースがある。
「むしろこの精神過程全体は、無意識的なものがどんな具合に関与しているか、という点に関して特徴づけられるのである。抑圧と排除とは別なものである」(フロイト「ある幼児期神経症の病歴より」『フロイト著作集9・P.416』人文書院)
排除されたものはその後どうなるのか。
「患者の内界に抑圧された感覚が《外界》に投影される、という言い方は正しくない。むしろわれわれは、内界で否定されたものが《外界から》再び戻ってくると考えるべきである」(フロイト「シュレーバー症例」『フロイト著作集9・P.338』人文書院)
貨幣並みに変身できる妖怪〔鬼・ものの怪〕にもなれず生息域をどんどん奪い取られていくばかりの狐や狸。彼らはもはや共存方法を見失い今や白昼堂々と住宅地に出没し、時には衝突している。また狸の場合、首都近郊の住宅地なら道路の側溝沿いに移動を繰り返す性質がある。
基本的に人間と動植物とは、共存できる生活環境が常に保たれていて始めて、異常気象の不意打ちに見舞われる頻度は低くなる。なおかつ異常気象といっても生態系の自己修復力はそもそも相当強固なものだ。これまでも生態系自身の自己修復力によって人間社会はかろうじて現状維持されてきた。ところが生態系に対するダメージが地球規模で生じた時、一体何が起こるのか。その光景を見た人間はまだ誰一人としていない。
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