細分化していけば「キリ」のない問いが詰め込まれている。そしてこの「キリ」の「なさ」はラストのページを済ませるや否やさらに更新されるほかなく間髪入れず新しい問いのページを出現させる終わりのない問題集のように立ち現れる。それでもなお幾つかの箇所を引用することはできるだろう。
(1)「児童-少女ロボット」大量生産。その普及期と衰退期。
「ウェンディとダイドーは二十年前にフランスで初めて生産された児童ロボット、『トイキッド』なのです。兄弟姉妹のいない同年齢の子供のために開発されたもので、三歳、五歳、七歳のモデルがありました。智力、体力ともに同年齢の子供の平均値によって決められています。
人間の子供の成長はあまりに速く、遊び相手を取り替えたいという要求も加速します。あっという間に、複雑なレゴの組み立て方を覚えられない友達には飽きてしまうのです。というわけで、トイキッドのICチップとプロセッサには廉価な素材が使われており、十数ヶ月も使えば廃棄するような仕様になっていました。
このタイプの商品は一世を風靡し、中産階級の両親たちはこぞって喜んで金を払い、自動ロボットに子供の相手をさせ、大人の智力で付き合うにはしんどい遊びにつきあわせたのです。まるで服役を交替してもらうように。
しかし、全ての流行と同じように、トイキッドも三、四年しか流行しませんでした。アメリカ・ルイジアナ州のあるコミュニティで連続殺人事件が起こったのです。三人の少女が無惨に殺されたのですが、犯人はなんと同じコミュニティに住む八歳の男の子だったのでした。この子の家は裕福で、両親ともに高収入の専門職に就いていました。警察はこの子の家で、見るも無惨にばらばらにされた児童ロボットを何体も見つけたのです。教育学者や少年犯罪の専門家が次々にインタビュー番組に登場し、おとなしく服従するだけのトイキッドは子供のメンタルヘルスによろしくないと言いました。トイキッドに父母の代わりをさせていると、両親に放置された子供は却って破壊欲を爆発させる、とーーー。
それで子供にロボットの友達を買い与えるというブームは急激に冷めてしまい、もう十分に儲けたメーカーはトイキッドを生産するのをやめたのでした。人々は死んだような児童ロボットをゴミ箱に捨てたり、引っ越す時に猫を捨てるのと同じように、車を都市の郊外に走らせて置き去りにしたりしました。この型番のロボットは重労働はできませんし、パーツも成年型のロボットと交換できません。ですから溶解炉に放り込む以外に人類が思い付いた用途は性的玩具しかありませんでした。
世界各地の中古ロボットがオークションサイトに上がってきますが、トイキッドの人気は年を追うごとに鰻のぼりで、いったんアップされると数秒で売れてしまいます。独身の男たちは小型の眠れる美女のような型落ちの女児ロボットを手に入れるとベッドの下に置き、毎晩取り出しては欲望の捌け口とするのでした。そして『蜂の巣』の風俗店のようなところが買い入れると、ディエゴのような人がロボットを修復し改造し、特定のプログラムをインストールするのです」(張天翼「花と鏡」『群像・3・P.166~167』講談社 二〇二五年)
この種の機械、今のところ日本ではスマホが代表的だが、速くもVR機器を揃えて性欲望に奉仕させる遊びに浸り込んでいる人々はたくさんいる。それ以外に遊ばせる方法が見当たらないという大人の声を解消するには生身の人間があまりにも少な過ぎる。なおかつどんどん開発される高度な機械に依存すればするほど労働力は加速的に必要なくなるという事情がある。アメリカのトランプ政権がイーロン・マスクらを要職にすえることで加速的に推し進めようとしている現実はますますこのような事態の追い風となろう。
(2)「ウェンディはまず靴を履き、それからワンピースを頭から被って、小さな頭を襟から覗かせました。ダイドーはそばにやってくると優しく手を伸ばして三つ編みを服から引っ張り出すと、肩の部分を整えてから背中のファスナーを閉めてあげました。まさしく妹の世話を焼くお姉さんです。私は黙って彼女たちを見つめていましたが、胸のうちにはあまりにも居心地の悪い温かさが湧き上がっていました。ほかの子の面倒を見てあげるというのは彼女たちのプログラムに書き込まれているのです。彼女たちは生まれつき、ほかの子によりそうようにできているのでした」(張天翼「花と鏡」『群像・3・P.169』講談社 二〇二五年)
もはや世界中の教育機関のほとんどで、その「弊害」を押し切るかたちで採用されている「子どもらしさ」の呪縛。戦後日本でも一九八〇年代、中曽根政権がアメリカのレーガン政権とともに「男らしさ/女らしさ」の鮮明化を強く打ち出した経験がある。それと同時並行するかたちで韓国では全斗煥軍事クーデタ(光州事件)が勃発。日米韓軍事同盟が剥き出しかつ刷新されて再浮上した。その時すでに張天翼が書く「ほかの子の面倒を見てあげるというのは彼女たちのプログラムに書き込まれているのです。彼女たちは生まれつき、ほかの子によりそうようにできているのでした」という人間の機械化=人格改造=機械的分業制は当時でいう「男女両性の強固な二元論」の再構築という試験を通して推し進められていた。
しかし八〇年代バブル全盛期の教育現場、とりわけ日本の諸大学では、より一層もっともな議論が学生らのあいだで行われていた。「男女両性」以外にも「性」はあるし二〇〇〇年代に入ってようやく議論することがそこそこ可能になってきたLGBT以前にゲイやレズはいくらもいた。それは当たり前としてもさらに「性自認」、妥当な言葉を探りつつ今でいうジェンダーは早くも議論されつつあった。もっとも当初のフェミニズムは体力に恵まれ口達者な人々たち「だけ」が争い合う奇妙な議論ばかりが目立ったわけで逆に困惑している学生らは実は想像以上に多かったと言わねばならない。「マッチョな男」あるいは「しおらしい女」へ加工=変造することができるということは、ほかならぬ「どんな性」へも加工=変造可能だからである。
さて張天翼「花と鏡」では大きく前面に出されている大人による「児童性暴力」問題。早急に解決を目指さないわけにはいかない問題のひとつだ。その意味では「花と鏡」の主要テーマでもある。被害児童の「声にならない声」、その「泣き叫び」をネットでちょろちょろ検索しては舌なめずりしつつ陰惨な嗤いを漏らしている大人(性別問わず)はこれまた数知れないだろう。いくらでも出回り消費されまくっている。
一方、現在の中国の内情はよく知らないのだが日本では児童性欲者の犯罪予防対策が主に精神医療の現場を通して順次取り組まれている。遅々として進まない感じはある。ネット検索してみるとすぐにわかるとおもうが実際に児童(性別問わず)に対する性犯罪で検挙されるほど目立つ場合なら対策は早いかもしれないが、それ以上に高速かつ大量に出回ると同時に大人の児童ポルノ愛好者が一体どれほどにのぼるか。放置すれば「被害者の加害者化」と「加害者の被害者化」という現実はいずれ天文学的な数字を叩き出すばかりかそのこと自体が新しい胚珠となってますます世界的規模で撒き散らされ増殖していくだろうとおもわれる。だが注意すべきはアメリカが経験した世界大恐慌の際、アルコール依存症者の大量発生とともに起こってきた逆説的問題。「目には目を、歯には歯を」式の対応はむしろ逆効果だという今やごく当たり前の取り組みである。
(3)「人間の奇妙な性癖を全力で読み解き、そして迎合しようとする女ロボットたちは、自分たちを奇奇怪怪に作り変えているのです」(張天翼「花と鏡」『群像・3・P.160』講談社 二〇二五年)
ネットの普及以前、殺人ロボットの開発以前すでに、そういう社会構造は堂々とまかり通っていた。
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