白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「うつせみ」の輪郭

2025年02月23日 | 日記・エッセイ・コラム

つい先日、奈倉有里のエッセイを見て商品「孤独」の無限系列ということを書いた。この種の商品系列のなかでも相当有力なものに「アイデンティティ」を上げる人はかなりいるだろうと思っている。

 

またしてもそのことを考えさせられたのは紗倉まなが希求する「孤独」についての現在地。二〇二四年八月号で発表された中編「うつせみ」を彷彿させるとともに若干の意識的移動を感じさせつつ再び「うつせみ」で取り扱われたテーマへやや傾斜しないわけにはいかない時期がやって来そうでもありいずれにしても重要なエッセイにおもえて仕方がない。「うつせみ」を読んでいたときラインを引いた箇所がある。ひとまず上げてみたい。四箇所。

 

(1)「痛みが体の線から今にもはみ出して溶け出しそうになり、ばあさんはそれを必死に両腕で押さえた。それでも体を突き破って外側に飛び出す猛烈な痛さと熱に、なんとか耐えることで精一杯だった」(紗倉まな「うつせみ」『群像・8・P.94』講談社 二〇二四年)

 

(2)「そう、息苦しい、ともう一度みぞれちゃんは呟くと、グラスの表面の水滴を手で拭いながら『息苦しいから、ちょんちょんって人生の部分部分を編集して、ハイライトまみれにしたくなっちゃう』と言い放つと、深いため息を『あー』と太く吐き出した。

『みぞれちゃんは、可愛いじゃん』辰子は驚いて言った。

『でも、私よりも細い子なんてたくさんいるのに私が売り出せるものって一体なんなのだろうって、考える。切り取り線みたいにね、型紙があるの、私の体のラインの。そこから生身の肉体が飛び出した瞬間、死にたいって思う』」(紗倉まな「うつせみ」『群像・8・P.103』講談社 二〇二四年)

 

(3)「辰子はまるで、踏ん切りがつかない。見せているものが裸に近いものであっても、それは決して裸ではない、と信じている。だからそのことで免罪されてしまい、周りがこちら側に向けて抱く欲情と共生している。改めてそのことについて掘り下げようとすると、コツンと何か硬いものにぶつかる。脱いでいることを軽率な行為であると判断した瞬間から、自身の振る舞いやこなしている日々が馬鹿馬鹿しいと思ってしまうことを、恐れている。辰子は漣のように押し寄せてきたそうした考えを、いっそのこと放棄したかった。あらゆることを精査していくことで、脱いで損をしたという体験から導かれる憎しみを、当てどころのないまま発露させなければならないことも嫌だった。辰子は、この体からはみ出そうとする痛みをかき集めるようにして抱き寄せてみる」(紗倉まな「うつせみ」『群像・8・P.113』講談社 二〇二四年)

 

(4)「どこからが本当に自分自身のものなのか、辰子にはわからない。言葉も、見た目も、身に着けるものも、その動きも、誰かの真似だったり、何かの影響を受けていたり、本当の自分に由来するものではないような気がする。何一つとして純粋に、自分だけのものとは言い切れない自分が、一体何者なのかだなんて断定できるわけがない。だから、ばあちゃんにかぎった話ではない」(紗倉まな「うつせみ」『群像・8・P.119』講談社 二〇二四年)

 

書評はすでに先月号で一穂ミチが述べている。にもかかわらずこうして列挙してみたのには理由がある。商品化された様々なアイデンティティが世界中で爆発的に売り上げを伸ばしている事情と、とりわけ(4)「どこからが本当に自分自身のものなのか、辰子にはわからない。言葉も、見た目も、身に着けるものも、その動きも、誰かの真似だったり、何かの影響を受けていたり、本当の自分に由来するものではないような気がする。何一つとして純粋に、自分だけのものとは言い切れない自分が、一体何者なのかだなんて断定できるわけがない」と書かかれた「うつせみ」とのリアルタイム性を確認しておきたい気持ちからだ。

 

「本当の自分」、なおかつ「本当の自分の欲望」。それは常に近い未来の側から覆い被さってくるとともに自身の内部から湧き起こってきたものとしてうっかり引き受けてしまいがちな錯覚のうちに出現するものなのだろうとおもえる。といってもラカン理論のみを当てはめていうわけではなく、むしろヘーゲルのいう「主人と奴隷の弁証法」のように他者がこちらを見る際の「まなざし」の側が常に一瞬速く見られた側をがんじがらめに固定したり無数に分裂させたりしてしまうという避けがたい条件はなぜ成立するのかという問いを起動させるだろうからだ。「うつせみ」というタイトルがまともに物語っているように人間の輪郭を決定づけているのは他者の「まなざし」でありそれはまた他者の欲望するとおりに欲望された無数の、なおかつ無責任この上ない「名付け」(あるいはラベリング)にほかならないと考えるからである。その意味で完璧な孤独というものについては誰も知らないし知らないことについて語ることはできないに違いない。

 

今回のエッセイ。人間誰でも行ったり来たりを繰り返すほかないあまりにも騒々しい非-孤独の縁から「ふっと力を抜いて見渡した部屋」とあり、そのすぐ前にこう書かれている。

 

「人は人といつの間にか繋がり、人は人を無遠慮に切っている。そしてある瞬間、切断されたときの音が、プチッと耳の横で鮮烈に聞こえる。

さあ、ここからが本当の私の始まりだ、という合図になって。一人でいるときの孤独はあたたかい。孤独はよく動くし、孤独はポテチを摘む。孤独は犬を丁寧に撫でるし、孤独は毛布で夜の寒さを器用に凌ぐ。孤独はたまにうまく息継ぎができなくなり、頼りないときもある。でも、グッと心を掴むテクニックを駆使してはこちらを飽きさせない」(紗倉まな「毛布と抜けがら」『群像・3・P.75』講談社 二〇二五年)

 

読者というのは往々にして勝手なものだが目にとまった文章にはすぐさまラインを引いてしまう癖は多分これからも抜けないだろうと思うのだ。文学とは別のところから押し寄せてくる諦念の系列とともに。


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