連載だからだろう。特集「孤独の時間」の枠の中に置かれているわけではないが「孤-独」ということについて生々しい言葉が紹介されている。紹介していくと同時に永井玲衣は考察をさしはさみ、読者へひと呼吸与えつつ、また語り出す。
「和田さんの文章は手のひらサイズだ。書きながら考えているような、ささやかな言葉たちだ。
『帝大新聞を見る。学生をとりもどしたような気持でむさぼり読む。そこには我々の姿を美しいと書いてある。そうかなあと思う』(和田稔(日本戦没学生記念会編「新版 第二集 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」ワイド版岩波文庫、二〇〇四年)昭和十八年十二月二十八日『回天搭乗員の手記』大竹編)
そうかなあ。和田さんはそう思った。『美しい』という言葉に、鼓舞されるのでもなく、怒りに震えるのでもなく、ゆっくりと、でもはっきり『そうかなあ』と思ったのだ。そして和田さんはそれを書いた。
『それから自習時間中。五十嵐中尉によびつけられ、美保子の手紙のことで注意をうける。<こんな手紙を見てどう思う>ときかれて、<やっぱり妹ですからかわいいと思います>と答えながら涙が出そうだった。くやしかった。手紙をもらって机に帰り読んでみたが、ほんとに何ということもない手紙で、これに明日抗議の手紙を書かねばならぬかと思うと、自分から自分がうらめしかった。休み時間に家に、区隊長と約束した通りの手きびしい手紙を書く』(和田稔(日本戦没学生記念会編「新版 第二集 きけわだつみのこえ 日本戦没学生の手記」ワイド版岩波文庫、二〇〇四年)昭和十九年三月二十一日『回天搭乗員の手記』武山編)
自分で書いたものだけでなく、とどいた手紙も検閲され、叱られる。そして、かわいい手紙に、書きたくない言葉で返さなくてはならない。『きけわだつみのこえ』には、そのあと和田さんが家族に書いた『手きびしい手紙』が載っている。抽象的な言葉がたくさん並んでいる。文末は『草々。』と書かれているが、注を見ると、『草々』のあとに句点を付した時は、不本意ながら書いた内容であるという取り決めを家族としていた、とある。
和田さんは涙をこらえて、書きたくないことを書いた。でも、たった一文字で世界をひっくり返した。これは書きたくないことなのだと、文字の中でもいちばん小さな、いまにもこわれてしまいそうな丸で記した。ほんとうに書きたかったことを、そのようには書かないで書いてしまった。和田さんはすごいひとだ。
勇ましい単語の連なりの右下に、ぽとりと置かれた丸は、すがたが見えないほど大きいせんそうの中に生きる、ひとりの小さな声のようだ。美辞麗句のずっと足元にひっそりとたたずんでいる、そうかなあ、というつぶやきだ。でも、それが世界を丸ごとひっくり返す力をもつのだ」(永井玲衣+八木咲「せんそうって(4)」『群像・3・P.378~380』講談社 二〇二五年)
さらに靖國神社の展示を引きつつこう述べる。
「各地の資料館では、塚本太郎さんというひとの遺書を、レコード録音した本人の声できくことができる。かれもまた回天の隊員だった。そうである前に、ひとりの慶應の大学生だった。塚本さんは何を考えていたのだろう。
遺書は家族や町、学校への『さようなら』からはじまり、『本当にありがとう』と告げられる。『僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ』と伝えられ、『みんな』との思い出が語られる。
『春は春風が都の空に踊り、みんなと川辺に遊んだっけ。夏は氏神様のお祭りだ。神楽ばやしが溢れている。昔は懐かしいよ。秋になれば、お月見だといってあの崖下にすすきを取りにいったね。あそこで、転んだのは誰だったかしら。雪が降り出すとみんな大喜びで外へ出て雪合戦だ。昔はなつかしいなあ。こうやってみんなと愉快にいつまでも暮らしたい。喧嘩したり争ったりしても心の中ではいつでも手を握りあって』(靖國神社遊就館での展示)
塚本さんは季節を追う。風景を描く。そこに一緒にいるひとびとを見る。そしてもう一度、みんなと『いつまでも暮らしたい』と、素直に願いを語る。
しかし、この直後から言葉はがらりと変わる。和田さんの手記のように、むずかしい漢語がたくさん出てくるようになる。同じ文章の中に、ここまで違う文体が入ってくることに驚く。言葉が変わると、ひとが変わる。
『しかし僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。[ーーー]余生に費やされるべき精力の全てをこの決戦の一瞬に捧げよう。怨敵撃攘せよ。親父の、お祖父さんの、曽(ひい)お祖父さんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。年長(た)けし人々よ、我等なき後の守りに、大東亜の建設に、白髪(はくはつ)を染め、齢を天に返して、健闘せられよ。又幼き者よ、我等の屍(かばね)をふみ越え銃剣を閃かして進め。日章旗を翻して前進せよ。至尊の御命令である。日本人の気概だ。永遠(とわ)に栄あれ祖国日本』(靖國神社遊就館での展示)」(永井玲衣+八木咲「せんそうって(4)」『群像・3・P.382~384』講談社 二〇二五年)
ステレオタイプ(紋切型)になるとこう変わるのか。変わる。けれどもすべてがそれだけで片付くあるいは説明できるわけでもない。
「冒頭で知人が言った『テンプレ』という表現からもわかるように、猛々しい文章は似た表現が多い、『紋切り型』とも言える。だが簡単にそうやってすべて結論づけてしまえるほど、単純でもない。
なぜなら、どれも自分の言葉であり、どれも自分の言葉とは言えないからだ。嫌々書いた文章もあっただろう。でも、もはやどんな感情なのかわからないで書いた文章もたくさんあったはずだ。そしてこれは、現代を生きるわたしたちの日常でもたくさんある。書きたいのか、書かされたのか、書くしかないのか、書きたくなかったのか、それらは複雑に絡み合って、どろどろに溶けている。でも、それを問われることはない。そこに苦しむことはない。苦しむのは、せんそうがそこにあるからだ」(永井玲衣+八木咲「せんそうって(4)」『群像・3・P.385』講談社 二〇二五年)
永井玲衣は「書きたいのか、書かされたのか、書くしかないのか、書きたくなかったのか、それらは複雑に絡み合って、どろどろに溶けている。でも、それを問われることはない。そこに苦しむことはない。苦しむのは、せんそうがそこにあるからだ」という。
その事情について個人的に最も考えざるを得なかったのは大学在学中のこと。文章化されているものというか、手に入りやすかったもので何かとテキストになったと今なお思えるものは大江健三郎と中上健次の諸作品だった。言葉というものの不可解にも魅力的で、ところどころ時制や話がごっちゃにならざるを得ないことをおそらく意識的に持った上での重層性について。
永井玲衣に戻ろう。
「対話の場をつくっていて思うのは、自分の言葉とは、他者との交わりの中で育っていくものだということだ。あらかじめ強固なものがあるわけではなく、誰かの言葉をきいたり、誰かに伝えたいという思いがあったりして、踏みしめられるものだ。だから言葉は何度も語り直される。そのたびごとに新しいいのちをもつ。自分の言葉とは、まだ自分でも知らない言葉だ。出会ったことのない言葉なのだ。『私にしか持てぬ時間』もまた、自分のものでありながらこれから出会っていく、広々とした場所なのだろう。
それに対して、もうひとつの言葉は、もう知っている言葉が集まってできている。追い立てられ、語らなければどうにもいられない、速度を持った言葉だ。書きたくなかったとしても、書きたかったとしても、ひとりぼっちで書くしかない言葉だ。せんそうはそんな言葉を生み出す。せんそうでは、他者とともに言葉を探すことも、ゆっくりと吟味することも、何度も語り直すこともできない。
でも、こうも思う。和田さんや塚本さんは『私にしか持てぬ世界』を守るために、ひとりぼっちの言葉を使ったのではないか。文体を変えて、ふたつの言葉を使い分けて、自分の考えていることを書いた。ほんとうに『祖国のため』に死にたいと思って書いたのかはわからない。そう思いたいというところもあっただろうし、そういうものだとも思っていたかもしれない。本気だったかもしれない。ただ、かれらはひとりぼっちの言葉をたくさん積み上げて、積み上げて、自分だけの世界を守った」(永井玲衣+八木咲「せんそうって(4)」『群像・3・P.387』講談社 二〇二五年)
もっともな論だとおもう。とともに現状のウクライナと日本政府、沖縄・南西諸島と日本政府、台湾と日本政府、韓国と日本政府、ーーー。零落するばかりのこの国の片隅で。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます