グリーンブレーカーズ by 高木肥料店

農業の現場の おはなしなどなど。

「水中を自在に泳ぐモグラ」を見た。

2015-09-04 16:29:07 | Weblog
「水中を自在に泳ぐモグラ」を見た。H


いまから5年以上も前のこと。

夏は海よりも渓流[かわ]ということで、暑気払いに膝下ほどの清流でシュノー
ケリングしていたときのことです。マスクの右手のほうから、ヒトのこぶしほど
の長い尻尾がついた茶色いタワシ状の物体が流れに逆らって流れてきたかと思うと
いきなりすごいスピードで潜水しそのまま岸辺の岩陰のほうに泳いでいきました。

 なに?いまのはなんだ?

と、岩陰の先までいってみると、その先には川岸。ということは、あの尻尾のつ
いたタワシは、いきついた岸から陸に上がって歩いていったことになります。

 姿はモグラみたいだけれど、尻尾があるのをみるとネズミ?

そんな動物なんているはずもない、何かの拍子に水に落ちた野ネズミの死に物狂
いの泳法をみせられたのかもしれないな・・・と勝手に解釈していたところ、後
日そんな生物が実際に存在していることを新聞で見て知ったのです。


それが 左下のこの小さい動物である → 長田小学校.jpg

ニホンカワネズミです。

そう、ニホンカワネズミとは「モグラでもなくもちろんネズミでもないのだが、
ネズミのような尻尾と水かきのついた足を持ち、清流を自在に泳ぎ回りながら
水中や水辺で魚類・カエル・水生昆虫等の小動物を捕食し、河畔の土中や石の
下に営巣するというモグラの仲間である動物
」だったのです。

この清流にしか棲まないというカワネズミ、地方によっては「水中モグラ」と
もよばれていることを、その5年ほど前の新聞記事[宮崎県三股町・長田小
学校のやまめクラブの活動とともに
]は伝えていましたよ[こちら]。

いやー、しかしです。
世の中って、ほんとに広いものですね。

まさか、 水中を泳ぐモグラというか、水中でも生活できるネズミというか、
そんな生き物がほんとに日本にいるなんて。いまではテレビで取り上げられた
り、施設で飼われてるようにもなって[ユーチューブは こちら]結構有名に
なりましたが、当時はほんとにびっくりものでした。

ということで今回は、[マスコミに登場するのは むしろカッパよりも少ない
かもしれない
]ニホンカワネズミという生き物のご紹介でした。


◎ 予備知識がないまま、たとえばカピバラやシャンハイハナスッポンに
  遭遇したとしたら・・・きっと “ネズミ”や“スッポン” の化け物
  [イコール妖怪]だと思い込んでしまうのも無理ないことなのでしょ
  うね。。

51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染




カッパもでそうな長田峡。

2015-09-04 15:54:12 | Weblog
カッパもでそうな長田峡。

次回関連の資として昨年分の2話、再掲載です。

 ↓

ひさしぶりにクマゼミが騒がしくなった15日朝。気温が体温よりも熱く
なりそうな気配だったので、涼を求めて三股町の長田峡へ行った。 

都城から北郷に抜ける33号線にのり、この案内板が見えると そこが
長田峡。この峡谷は、鰐塚山地南斜面のシラスや溶結凝灰岩の層からな
る日南層群(7千万年前~2千6百万年前)の台地を、沖水川が侵食して
つくりだした峡谷なのです。


 長田峡


車を駐車場に置き、その駐車場からせいぜい10段ほど階段を降りるだ
けで すぐに深山の趣きを感じられるのが、この渓谷の最大の魅力なの
です[東京の等々力渓谷の立地を連想させられますね]。

お薦めは下流側から。


 渓流


幅10メートルほどの川の流れに沿って設けられている遊歩道を、上流
に向かってのぼっていくと、数分もしないうちに川の様子が荒々しく変
化します。


ののの 急流


堰[せき]です。


 瀑布


この9メートルほどの堰から、ごうごうと勢いよく流れ落ちる大量の水。
この水のつくり出す水しぶきが、ひやっとした清涼感をつくり出します。


ののの 沖水川


その堰の上流では、堰の下とはまたちがった表情を見せてゆったりと流
れる沖水川。

ワサビが自生したり、清流にしか棲まないといわれているカワネズミ
いるという、流れる水そのものの清らかさ。この汚染されていない水の
存在もまた、この峡谷の魅力なのです。

つづく。


◎ 沖水川周辺では、河童は“がぐれ”とよばれています。そのがぐれ。
  2枚目・右上の写真の 川岸の平らになった岩のあたりに座って
  腰掛けていそうな、そんな気がしてしまいます。
 

51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg 「夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染」 





三股町由来のカッパのはなし。gb

前回は、長い年月をかけて沖水川がつくり出した長田峡をご紹介しました。そし
て、この長田峡の周辺では、

 ● 沖水川周辺では、河童は “がぐれ” と よばれていること
 ● その がぐれ に関するはなしが 伝承されている

というお話を、すこしばかりさせていただいたのです。そんなことを考えながら
毎年夏が近づくたびに涼を求めて長田峡の周辺に通っていたのですが・・・本年
の4月末に 寝耳に水のビッグニュースがとびこんできました。

なんとそれは、「都城市にある都城島津伝承館にて4月19日から6月22日ま
での間、江戸時代に三股町の川岸で銃殺されたカッパの手足が初公開される」と
いうもの。

その都城島津伝承館によるカッパの手足の写真 こちら 。
そしてこの展示に関する新聞記事が こちら となります。

この新聞記事にはありませんが、じっさいにはもっと詳しい謂われが、この手足
とともに伝わっており、その添付文書によると

 文政年間、侍の上村休助が現在の三股町梶山でカッパを銃で射止めた後、急病
 になったが、 友人の大川原世則が修験者にまじないを頼み回復。世則は休助か
 らお礼にカッパの両手足をもらい、 一対を同家に献上した


と記されているのだそうです。

カッパの手足が本物か否かももちろん気になりますが、それよりも事件に関する
詳細と関係する人物のはなしが、このような文章という形としてはっきりと残って
いるのがすごい
なと、
でかけていった都城島津伝承館でカッパの手足を眺めながら、わたしは思いました。

ちなみに 添付文書にある三股町梶山。この場所は 長田峡よりも 下流にあり
ます。・・・ということはですよ、 梶山よりも沖水川の上流にあたる長田峡や、
もっと上流には いまでも カッパ/がぐれ が いてくれないかなぁって ねが
わずにはおられませんでした。

つづく。


◎ それにしても上村休助さん。見かけたカッパをいきなり[だと思う]撃つって
  いうのも、すごく豪胆ですねっ。よっぽどカッパが悪さしてたのかしらん。

51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg 「夢で終らせない農業起業」「里地里山複合大汚染」 



ナラ枯れがよぶのか、キノコの豊作[そしてクマ被害も]。

2015-09-03 00:24:45 | Weblog
ナラ枯れがよぶのか、キノコの豊作[そしてクマ被害も]。

山間部に自生するナラやカシなどの広葉樹が集団枯死する「ナラ枯れ」。
ここ宮崎県では2010年の被害が顕著でしたが、その年から数年のあ
いだは山のキノコが豊作となりました。

そう、集団枯死したナラやカシなどの木の幹を中心に、たとえばマイタ
ケなどのキノコが群生して生えてくるからです。「直径1メートルほど
の木に、びっくりするくらい生えていた」「発見してから採り終えるま
でたっぷり1時間もかかった」「一回で数十キロの収穫があった」など
という話が飛び交ったのもこのころでした。

このような ある意味異常な山の現象は、もちろんよいことばかりでは
ありません。

それは山の斜面に樹木がごっそり枯れてしまった部分があると[土を支
えていた樹木がなくなるわけですから]ガケ崩れ・鉄砲水などの山林崩
壊の危険性が一気に高まってしまうからです。なにせ台風の常襲地です
から、たとえば強い・つよすぎる風雨のなかの里山の民家の上の急斜面
に生えているナラの樹木が枯れてしまった図を想像すると、容易にその
怖さ[頭の上に切れかけているロープに縛られた包丁がつるしてあるみ
たいな]が想像できます。

そんなナラ枯れが、のののののの →  ナラ枯れ記事  
宮崎県の山間部で多発しています。

今回の報道では 「ここ30年で最大の危機」と表現されていますので
どうやら2010年のナラ枯れよりも 規模が大きいようで、その被害
のこれからの広がりが懸念されていますよ。

そして心配されるのは今後の被害の拡大です。これは2010年の被害
の図ですが、数年のうちに同じくらいの被害となっていくのかもしれま
せん。

ののの グラフ.jpg

なんといっても、この山のナラ枯れ。もともとは1930年代に宮崎や
鹿児島で最初の発生が確認された現象
だといいますから、今回の被害拡
大は これから列島全体に広がっていく前兆かも。

さらにそのような九州以北の感染拡大で心配されるもの、それはクマに
よる人的被害です。

 山間部に自生するナラやカシの一部が枯れる
 ↓
 ナラやカシなどのつける実/ドングリが少なくなる
 ↓
 クマの餌であるはずのドングリが不足
 ↓
 クマがパニックになる
 ↓
 餌を求めてクマが里山におりてくる

といった図式ですね。ちなみに2010年前後には平年の3倍から4倍
にもあたるクマが捕殺されたという説
もあるくらいですから、ヒトが考
えているいじょうに、自然界にあたえるナラ枯れの影響は大きいものな
のでしょう。

ということで今回は、宮崎県で2010年以上となるかもと予想される
ナラ枯れがおこっている現状についてのお知らせでした。


◎ ナラ枯れの原因となるのは、カビの一種・ラファエレア菌。
  この菌はナラやカシの樹に巣くうカシノナガキクイムシと
  いう体長5ミリほどの虫が運ぶ伝染病だとされています。

51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg 「夢で終らせない農業起業」「 本当は危ない有機野菜




被爆イネ・もうひとつのバケツ稲のお話。

2015-09-01 14:58:18 | Weblog
被爆イネ・もうひとつのバケツ稲のお話。

フクシマの影響とみられるモミの木の異常がみつかっているというニュ
ースの関連として、2005年9月に掲載した当ブログ記事の採録です。
もともとのバケツイネの記事といっしょに、よろしかったらご参考に。

 ↓

『被爆イネ・もうひとつのバケツ稲のお話。』

60年前に長崎で被爆したイネの子孫が、今年も育っています。

原爆の閃光と高熱で一瞬にして破壊された長崎。その廃墟となった長崎市
内から、いかにしてこのイネは現代に生き延びたのか。またこのイネへの
被爆の影響は、いかなるものでしょう。。

イネを採取したのは原子爆弾災害調査特別委員会/原爆調査団という組織。

  注〕原子爆弾災害調査特別委員会/原爆調査団
  1945年9月に文部省学術研究会議によって原子爆弾の災害を総合
  的に調査研究するために原子爆弾災害調査特別委員会(以下原爆
  調査団)が設立され、物理化学地学科会・生物学科会・機械金属学
  科会、電力通信科会、土木建築学科会、医学科会、農学水産学科
  会、林学科会、獣医学畜産学科会で構成されました。  

1945年10月から広島・長崎を現地調査。翌年1946年にも、追加
調査しています。この原爆調査団のなかの農学水産学科会に参加していた
九州大学農学部が、現地で発見しました。

被爆したイネがみつかった場所は、爆心地から500メートルほど離れた
浦上天主堂下にあった水田です。もちろん、地上部は原爆の高熱で焼失し
ていましたが、その焼失していたイネの根が奇跡的に生存していた。

そして、そのイネの土中に残っていた根から新たに発芽結実した!という
のです。すごいことだと思います。

なんといっても「爆心地近くでは、植物は30年は生えないだろう」・・
こう予測した当時の欧米の科学者の発言もあったのです。浦上天主堂の被
害の惨状をみるにつけ、その発言は的を得たもののように思えてしまいま
すが・・・けれど、イネは生き残った。

原爆調査団がはいったのは10月ということになっていますので、おそら
く普通作として植えられていた穂がでたばかりの状態のイネが発見された
のだと思います。発見した九州大学農学部はそのイナ株を持ち帰り、結実
した種を同大学農学部育種学教室で保存、現在にいたったという次第です。

その後の 被ばくイネです。

2003年、NPO九州アジア記者クラブが、この被爆イネの種子の存在
を久留米工業大学の猪飼秀隆講師に紹介、その後300粒の種子を譲り受
けた猪飼秀隆講師が福岡県久留米市内の所有田でそだてられました。
2004年、NPO九州アジア記者クラブ の古賀毅敏さんと、猪飼秀隆
講師は、8月9日に長崎市に出向き、小学校の授業で使ってもらいたいと
市側に依頼するとともに、「教育委員会と相談しながら県内400ほどの
小学校に配布する」ことなども検討されるという経緯をたどりました。こ
のイネの子孫が現在もバケツ稲として栽培されて現在にいたります。

さて、そんな被ばくイネです。
農学・農業の面からいえばなにが特徴となっているのか。

それは、被爆したイネの 「染色体異常」 にあります。生長しても実が
半分しか入らず、モミが長細くなる
といった後遺症がみられるのです。

  注〕染色体異常
 「相互転座」と言われる状態で、遺伝子の情報量に変化はないが、
  染色体の位置が変わるためにおこる現象。

この被ばくイネを通常のバケツ稲栽培と合わせて栽培すると、違いがよく
わかります。こうした違いを実際に目でみて確認することが[後遺症のの
こる成長を観察することが
]平和教育につながるといわれていますよ。

ということで、今回はバケツ稲関連の話として、長崎で平和教育の一貫と
して栽培されている「もうひとつのバケツ稲」のご紹介でした。
そして私ごとですが・・私がこわいとおもったのはなんといっても、被爆
イネの品種が不明だということ。大学の育種学教室が鑑定しても、この
ばくの品種が「晩生のイネ」としかわからない点
です。


◎ 普通作の水稲が実りの準備をしている8月、原爆が投下される60
  年前の夏の長崎でも、普通作の水稲が実りの準備をしていたわけで
  す。そこには、イネとイネの世話をしてきた農家、イナ作に必要な
  共同作業をともに実施してきた農村共同体であるムラ、それに大切
  な食料として、イネの実りを待ち望んでいた長崎市民もたしかに存
  在していた。もちろん、その田んぼのあちこちには、たくさんのい
  ろいろな生き物もくらしていた・・なんてことを、このイネをみた
  ときに思いました。

51P4M6yKWYL__SL500_SS75_.jpg 「夢で終らせない農業起業」「 本当は危ない有機野菜