「五つの謎」というタイトルは、碁についてなぞめいたことが五つありますという意味ではない。
謎が5個だけなどとんでもない話です・・・それこそ山ほどある。
自分の年を考えると、程なく赤いチャンチャンコの世代ではあるけれど、未だに今まで生きてきて「そういうの知らなかった」ということにぶつかるのだから、そういうことに驚くのですが、尤も見方を変えればそのこと自体思いあがりの部類でしょうね。
マア多少は思いあがったところが無いと世間を渡るのに疲れてしょうがないでしょうから、少しはお目こぼしいただくとして・・・こういうことの反対側に近い意味でしょうか「日の下に新しいものなし」という言葉もあります。
これは矛盾ではないと思うのです。
「日の下に新しいものなし」・・・新発見は”発見”であって、昔からそこにあるものを、今見つけたということであって、要するに「知らなかった」「認識していなかった」ということに他ならない。
物事の切り口を変えたら見えてきたというものもるかも知れない
(全く新しいものを作るということは、どう考えるか分かりませんが、この際除外して話します)
さて特に碁に関してでは、今まで知らなかったこと=不思議なことと受け取ることは無いでしょうか?
チョッと寄り道
先日TVのクイズ番組で、国語の書き取りみたいな問題がありました、それは”ご”という読みの漢字を熟語の組み合わせで応えるのですが、囲ごの”ご”に出演者は手こずっていた。
誰かが出来ればクリアーということで、10個ぐらいある問題を出演者が一つずつ選んで応えるのですが<囲ご>は敬遠されて後回しです。
最後に残って、元NHKアナウンサーの見るからに常識派的な人が1回書き間違えて、2回目にやっと出来た
その他のメンバーは彼頼りみたいだったというか、自分ではやりたきなかった・知らない・自信がないようで、知識として相当寒い話。
<碁>という文字は、普段の生活に知らなくても困らない文字ではある、それに殆どの人が<読めるけれど書けない>様です・・・知識はもとより意識に無いのでしょうね。
ホンノ30年くらい前までは「碁は日本古来からの文化」みたいな位置づけだったはずだから・・・予想はしていたけれど、行く末が見えるような気がしてショックを受けたのです。
書かれた物を見れば、それほど字画も多くなく、形だって複雑とはいえないのに
若い女の子に「囲碁って何?」と聞かれなかっただけましだったかな?
こういうことをきっかけに、碁に関する「不思議」を思いつくまま書いていくことにします。
それで、今日は最近感じている「五つの不思議」について。
これは碁の形とかテクニックの不思議でなく、心理面の不思議です
厳密に言うと四子の場合も多少似ていますが・・・
さてこれは思い出話から始めます
30年近く前総武線の津田沼駅前は今みたいに開発されていなくて、海側はがらんとした土地があって(開発直前)そこに「津田沼棋院」という碁会所がありました。
木造の2階建てで多分兵舎みたいなものを改造したような・・・
ともかく中央に板敷きの廊下というか通路があって、両側に畳の場所があるような
・・・木造の昔の学校を想像してください、真ん中に板敷きの廊下があって、両側が教室で、その廊下の壁が取り払われていて、床に畳が敷かれている・・・そういうイメージ(もしかしたら馬房のイメージかも)。
そこでは多分(記憶では隔週)指導碁が行われていました。
勿論有料ですが、プロ棋士に接する機会が少ない時代でしたから貴重なもの
私自身は指導碁を受けませんでしたが、遠くから観戦はしたものです。
興味深深ですが、気後れがあり自分では名乗りを上げられない時代
さてそこで目撃したこと
ある若い人が指導碁を受けていて不本意な負け方をしたらしい、憮然とした顔をしているのが離れていても分かります。
その時の先生・福井進六段が「では並べてみましょうか」と彼に話しかけたのですが、彼はうつむいてしばし無言だから先生もどうしようもない。
一瞬あって彼は立ち上がり黙って帰っていきました。
情景としてはそれだけですが、後姿から・・・「何故負けたのか納得がいかない」と思っていることが分かるのです。
多分それは四子か五子の指導碁だったと思う
とすると、当時アマの県代表クラスが例外的な人はともかく三子でも危ない時代でしたから、プロに五子としたら県代表クラスに二子で打てるくらいということになるだろうか(単純に考えると)
<マナーとして、問題は大いにありますが、その件は別に機会に>
その彼がそこまで強かったかどうか分かりませんが、今にして思うと「五子」というものには不思議な魔力があるのではないだろうか。
つまり手合いで考えると、プロに5子で打てるという事は、アマとしては弱くは無い・・・が棋力の差を考えると相当なギャップです。
ところが感覚としては「五つも置けば誰が相手でもそう簡単には負けるはずが無い」と思わせるものがあるようなのです。
これは例えば俗説的にアマ初段はプロに七子というような計算の結果、五子という手合い割りではなくて、少々の棋力差など関係なく「5子置けば・・・」
この時の若い人もそう考えたのではないだろうか。
そういう気分は実は私にもおぼえがある
私が最初に打っていただいたプロ棋士は信田五段でした
記憶でははっきりしないのですが、多分4子か5子だった。
結果は先生の石など全部取ってしまえ的な勢いで襲い掛かったつもりが、肩透かしを食い・腕をねじり上げられ・・・返り討ち。
時代劇のチンピラが堅気の人に絡んで行って、そこに正義の味方が現れアッサリ片付けられる・・・あのパターンが盤上に再現。
その次に打っていただいたのが森田道博(当時)四段
彼が売り出し中で、お父さんと一緒に地元の碁会所を訪問してくれました
この碁は4子だったけれど、気分も黒の態度も同じで結果も同じ
更にかなり後になってゼイ・ノイさんに打っていただいた時も五子・・・結果は言わなくても想像通り・・・
(ゼイ・ノイさんの超早打ちには驚かされました。多面打ちでも、ほぼ瞬間的に打ち返してきます。急所にビシビシ来る感じですね)
ただこの頃はプロの凄さに気がついてきてはいたのですが、自分の性格で頭から突っ込んでいくスタイルを変えられない時期ではあった。
ともあれ、五子局というのはこういう気分にさせるものがあるのではないだろうか?
今昼休みの職場碁のF、K両氏とも「aizomechouごときに5つも置けば・・・」と思っているに違いないのです。
善悪は別として六子、七子の下手は上手に「尊敬」というか「恐れ」を持っているような気がするが、「五子」ともなると、自分の棋力にも多少は自信がついてくるだろうし、五子の置石が持つ威力も感じるようになるからか、”気分”が変わっていくのでしょうね。
プロに五子を乗り越えることの大変さ気づくのは別の問題があると思われるのでそれは別の機会として・・・それに比べたらアマチュア同士の話ですから五子の壁と言ってもたいした事は無いでしょうし。
それでも「五子の不思議」というか「五子の罠」を乗り越えないといけないでしょうね。
ココにはテクニックとしての要素があるのは勿論ですが、「碁盤に向かう姿勢」=「気持ち」、「碁盤を見る目」みたいな要素が大きいと思うのです。
総合的なものが要求されているような気がしますが、どうだろうか?
「ココから先はテクニックだけではありませんよ」という関門かも知れませんね。
謎が5個だけなどとんでもない話です・・・それこそ山ほどある。
自分の年を考えると、程なく赤いチャンチャンコの世代ではあるけれど、未だに今まで生きてきて「そういうの知らなかった」ということにぶつかるのだから、そういうことに驚くのですが、尤も見方を変えればそのこと自体思いあがりの部類でしょうね。
マア多少は思いあがったところが無いと世間を渡るのに疲れてしょうがないでしょうから、少しはお目こぼしいただくとして・・・こういうことの反対側に近い意味でしょうか「日の下に新しいものなし」という言葉もあります。
これは矛盾ではないと思うのです。
「日の下に新しいものなし」・・・新発見は”発見”であって、昔からそこにあるものを、今見つけたということであって、要するに「知らなかった」「認識していなかった」ということに他ならない。
物事の切り口を変えたら見えてきたというものもるかも知れない
(全く新しいものを作るということは、どう考えるか分かりませんが、この際除外して話します)
さて特に碁に関してでは、今まで知らなかったこと=不思議なことと受け取ることは無いでしょうか?
チョッと寄り道
先日TVのクイズ番組で、国語の書き取りみたいな問題がありました、それは”ご”という読みの漢字を熟語の組み合わせで応えるのですが、囲ごの”ご”に出演者は手こずっていた。
誰かが出来ればクリアーということで、10個ぐらいある問題を出演者が一つずつ選んで応えるのですが<囲ご>は敬遠されて後回しです。
最後に残って、元NHKアナウンサーの見るからに常識派的な人が1回書き間違えて、2回目にやっと出来た
その他のメンバーは彼頼りみたいだったというか、自分ではやりたきなかった・知らない・自信がないようで、知識として相当寒い話。
<碁>という文字は、普段の生活に知らなくても困らない文字ではある、それに殆どの人が<読めるけれど書けない>様です・・・知識はもとより意識に無いのでしょうね。
ホンノ30年くらい前までは「碁は日本古来からの文化」みたいな位置づけだったはずだから・・・予想はしていたけれど、行く末が見えるような気がしてショックを受けたのです。
書かれた物を見れば、それほど字画も多くなく、形だって複雑とはいえないのに
若い女の子に「囲碁って何?」と聞かれなかっただけましだったかな?
こういうことをきっかけに、碁に関する「不思議」を思いつくまま書いていくことにします。
それで、今日は最近感じている「五つの不思議」について。
これは碁の形とかテクニックの不思議でなく、心理面の不思議です
厳密に言うと四子の場合も多少似ていますが・・・
さてこれは思い出話から始めます
30年近く前総武線の津田沼駅前は今みたいに開発されていなくて、海側はがらんとした土地があって(開発直前)そこに「津田沼棋院」という碁会所がありました。
木造の2階建てで多分兵舎みたいなものを改造したような・・・
ともかく中央に板敷きの廊下というか通路があって、両側に畳の場所があるような
・・・木造の昔の学校を想像してください、真ん中に板敷きの廊下があって、両側が教室で、その廊下の壁が取り払われていて、床に畳が敷かれている・・・そういうイメージ(もしかしたら馬房のイメージかも)。
そこでは多分(記憶では隔週)指導碁が行われていました。
勿論有料ですが、プロ棋士に接する機会が少ない時代でしたから貴重なもの
私自身は指導碁を受けませんでしたが、遠くから観戦はしたものです。
興味深深ですが、気後れがあり自分では名乗りを上げられない時代
さてそこで目撃したこと
ある若い人が指導碁を受けていて不本意な負け方をしたらしい、憮然とした顔をしているのが離れていても分かります。
その時の先生・福井進六段が「では並べてみましょうか」と彼に話しかけたのですが、彼はうつむいてしばし無言だから先生もどうしようもない。
一瞬あって彼は立ち上がり黙って帰っていきました。
情景としてはそれだけですが、後姿から・・・「何故負けたのか納得がいかない」と思っていることが分かるのです。
多分それは四子か五子の指導碁だったと思う
とすると、当時アマの県代表クラスが例外的な人はともかく三子でも危ない時代でしたから、プロに五子としたら県代表クラスに二子で打てるくらいということになるだろうか(単純に考えると)
<マナーとして、問題は大いにありますが、その件は別に機会に>
その彼がそこまで強かったかどうか分かりませんが、今にして思うと「五子」というものには不思議な魔力があるのではないだろうか。
つまり手合いで考えると、プロに5子で打てるという事は、アマとしては弱くは無い・・・が棋力の差を考えると相当なギャップです。
ところが感覚としては「五つも置けば誰が相手でもそう簡単には負けるはずが無い」と思わせるものがあるようなのです。
これは例えば俗説的にアマ初段はプロに七子というような計算の結果、五子という手合い割りではなくて、少々の棋力差など関係なく「5子置けば・・・」
この時の若い人もそう考えたのではないだろうか。
そういう気分は実は私にもおぼえがある
私が最初に打っていただいたプロ棋士は信田五段でした
記憶でははっきりしないのですが、多分4子か5子だった。
結果は先生の石など全部取ってしまえ的な勢いで襲い掛かったつもりが、肩透かしを食い・腕をねじり上げられ・・・返り討ち。
時代劇のチンピラが堅気の人に絡んで行って、そこに正義の味方が現れアッサリ片付けられる・・・あのパターンが盤上に再現。
その次に打っていただいたのが森田道博(当時)四段
彼が売り出し中で、お父さんと一緒に地元の碁会所を訪問してくれました
この碁は4子だったけれど、気分も黒の態度も同じで結果も同じ
更にかなり後になってゼイ・ノイさんに打っていただいた時も五子・・・結果は言わなくても想像通り・・・
(ゼイ・ノイさんの超早打ちには驚かされました。多面打ちでも、ほぼ瞬間的に打ち返してきます。急所にビシビシ来る感じですね)
ただこの頃はプロの凄さに気がついてきてはいたのですが、自分の性格で頭から突っ込んでいくスタイルを変えられない時期ではあった。
ともあれ、五子局というのはこういう気分にさせるものがあるのではないだろうか?
今昼休みの職場碁のF、K両氏とも「aizomechouごときに5つも置けば・・・」と思っているに違いないのです。
善悪は別として六子、七子の下手は上手に「尊敬」というか「恐れ」を持っているような気がするが、「五子」ともなると、自分の棋力にも多少は自信がついてくるだろうし、五子の置石が持つ威力も感じるようになるからか、”気分”が変わっていくのでしょうね。
プロに五子を乗り越えることの大変さ気づくのは別の問題があると思われるのでそれは別の機会として・・・それに比べたらアマチュア同士の話ですから五子の壁と言ってもたいした事は無いでしょうし。
それでも「五子の不思議」というか「五子の罠」を乗り越えないといけないでしょうね。
ココにはテクニックとしての要素があるのは勿論ですが、「碁盤に向かう姿勢」=「気持ち」、「碁盤を見る目」みたいな要素が大きいと思うのです。
総合的なものが要求されているような気がしますが、どうだろうか?
「ココから先はテクニックだけではありませんよ」という関門かも知れませんね。