昼休みの碁でFさんの置石の置き方で言おう言おうと思っているのだけれど、こういうことは時期を逸してしまうとなかなか言い出すきっかけが難しい所があります。
何だか偉そうに「常識を教えてやる」みたいに取られるのが怖いし
もし「あっそう、それがどうした?」と切り返されら二の句が無いし・・・
彼は[両手に夫々石を持って上辺の左右の星に同時に置いて、次いで下辺側の左右の星に同時に置く ]・・・確かにルールでの規定は無いから自由ではあるらしいいし、両手で合理的な作業とはいえます。
ただ、彼の場合は合理性を追求しているとは思えない・・・時に片手で置石を置く時もあるのだが、これはそのときの気分で置くから毎回違うやり方になる。
コレはルール違反でもマナー違反でもない。
但し、石を置いていく途中での美しさと言うか、置く人の所作の美しさみたいなものは感じられない。
いつものコミュニティでは6子置くのに左右に3子ずつ石を持って、両手で両側の星に石を配るみたいな置き方をする人がいる。
私よりかなり年上の人だし、多分キャリアも私より上だろう
だから置き方を教えるというのはおこがましいし、かといってあんなにキャリアのある人が・・・と言う感じで少し寂しさも感じるものです。
こういうことに違和感を感じる感性と言うか拘りは日本人的?・・・
でも目の前でやっている人も同じ日本人だし、かなりの年配者もいる
多分誰にも教わらなかったか、「合理性」から見て意味の無いことだと思っているのかも知れないですね。
例えば芸事で茶道・華道などで動きは無駄なことをしないという合理性と、見た目にも美しいという形だろうと想像しています。
碁において両手で石を扱うというのは終局して碁笥に石を収める時以外は決して美しいとは感じないと思う。
対局中の所作として、一度に石は片手に一つしか持たないのが原則?とすれば対局直前ではあるけれど、両手を使って置くのは有り得ないと思うのですが
更に置石を置く順序から言うと、2子から井目まで置く順番は決まっている。
誰が何時決めたのか追求されると困りますが・・・
繰り返すけれどルールでは無くマナーとも言い切れるかどうか分からないけれど、そこに様式美を感じるし、私としては上手に対する下手のマナー的なものも感じるし、それ以上に碁を楽しむ人の「碁」に対するマナーみたいに思うのです。
だから勝手な言い分で言うと、こういうことを知らないのか、出来ないのか、やらない人を見る時に、何だか底の浅さを感じてしまう。
マア、現実の世の中で何がどう変わるというものでもないですがね。
さてもう一つルールでもマナーでも無い話
ある囲碁のHPで詰め碁のトレーニングをしている人の感想から
「基本的な問題が役に立つし、場所や向きを変えて繰り返し出題されるので勉強になる・・・」みたいな書き込みがありました。
確かにそういう面はあるだろうな、急所とか筋は同じなのに向きが変わると混乱したりするらしい
元の問題をA0とすると場所や位置を変えるとA1からA8まで出来そうですね
それでA1はよく出来てもA5とかA6になると怪しいみたいな・・・
そういう意味で場所と向きを変えて繰り返すのは正しいかもしれない。
私はFさんの向う4子で白1手目に星に小ケイマでかかるとしたならば、右上の星に右辺側からかかることに決めています。
同じ意味の・同価値の位置が盤上に8箇所ありますが、目先を変えるような打ち方はしたくない。
敢えて同じ位置から始めるわけです。
変えると、白自身に小手先の作為を感じてしまいます。
それこそ何処に打とうと自由なのですが右上に拘りがあります。
日本の棋譜では黒の1手目は右上と決まっているのですが、それは何時ごろからでしょうね・・・誰がきめたのでしょう?
昔の地下鉄漫才ではないけれど、考え始めると眠れなく・・・そんなことは無い
スタート時点で天元は一つしかない場所ですが、その他は同価値の場所が複数ある・・・ならば1手目は右上から・・・と言うのも棋譜を取ったり囲碁を研究する上での合理性でもあろうか。
ということは囲碁が進歩して行った時代、戦国時代だろうか江戸時代の家元制度が整っていく時代だろうか?
たった1手なんですが研究するときっと面白い
私には文献も資料も無いからただ空想するだけですが
ところで1手目の方向を決めるとして、それは何故右上方向か?
コレは相手に打ちやすい場所を残していく・・・例えば3子の置き碁で白の右手前を空けて置くみたいな意味だろうか?
今でもそうですが古くから右利き社会だったから右を空けて置くのかも
それでは何故左とは言え白の側の星を空けないのか?
白に敬意を表する意味があるのなら黒は自分の手前の右の星でもいいはず。
私の勝手な想像では、コレは見た感じと関係が有るような気がする
もし盤上に1個だけ石を置くとしたら・・・それを黒から見た棋譜として記録し絵として見るとしたら・・・
ポスターの視線を引きつける位置ではないけれど、それは右上か左上の星あたりでしょう。
黒1が右上星方向以外で(天元は別として)置かれていたら、なにやら落ち着かない気分になりはしないだろうか。
それはそういうものに慣れさせられた結果だろうか、それとも位置の持つ意味がそれを表しているような気がする
ともかく相手の右手での着手を考えて左上は空けておくとすれば、右上に限られてくるのかも。
さて何処に打っても同じなら右上からと言う感覚と、何処に打っても良いのだからほんとに何処に打っても・・・もし予想外の所から始まったら、石数が増えてくるまで何となく落ち着かなかったり、気持ちが悪かったりしそうです。
何だか偉そうに「常識を教えてやる」みたいに取られるのが怖いし
もし「あっそう、それがどうした?」と切り返されら二の句が無いし・・・
彼は[両手に夫々石を持って上辺の左右の星に同時に置いて、次いで下辺側の左右の星に同時に置く ]・・・確かにルールでの規定は無いから自由ではあるらしいいし、両手で合理的な作業とはいえます。
ただ、彼の場合は合理性を追求しているとは思えない・・・時に片手で置石を置く時もあるのだが、これはそのときの気分で置くから毎回違うやり方になる。
コレはルール違反でもマナー違反でもない。
但し、石を置いていく途中での美しさと言うか、置く人の所作の美しさみたいなものは感じられない。
いつものコミュニティでは6子置くのに左右に3子ずつ石を持って、両手で両側の星に石を配るみたいな置き方をする人がいる。
私よりかなり年上の人だし、多分キャリアも私より上だろう
だから置き方を教えるというのはおこがましいし、かといってあんなにキャリアのある人が・・・と言う感じで少し寂しさも感じるものです。
こういうことに違和感を感じる感性と言うか拘りは日本人的?・・・
でも目の前でやっている人も同じ日本人だし、かなりの年配者もいる
多分誰にも教わらなかったか、「合理性」から見て意味の無いことだと思っているのかも知れないですね。
例えば芸事で茶道・華道などで動きは無駄なことをしないという合理性と、見た目にも美しいという形だろうと想像しています。
碁において両手で石を扱うというのは終局して碁笥に石を収める時以外は決して美しいとは感じないと思う。
対局中の所作として、一度に石は片手に一つしか持たないのが原則?とすれば対局直前ではあるけれど、両手を使って置くのは有り得ないと思うのですが
更に置石を置く順序から言うと、2子から井目まで置く順番は決まっている。
誰が何時決めたのか追求されると困りますが・・・
繰り返すけれどルールでは無くマナーとも言い切れるかどうか分からないけれど、そこに様式美を感じるし、私としては上手に対する下手のマナー的なものも感じるし、それ以上に碁を楽しむ人の「碁」に対するマナーみたいに思うのです。
だから勝手な言い分で言うと、こういうことを知らないのか、出来ないのか、やらない人を見る時に、何だか底の浅さを感じてしまう。
マア、現実の世の中で何がどう変わるというものでもないですがね。
さてもう一つルールでもマナーでも無い話
ある囲碁のHPで詰め碁のトレーニングをしている人の感想から
「基本的な問題が役に立つし、場所や向きを変えて繰り返し出題されるので勉強になる・・・」みたいな書き込みがありました。
確かにそういう面はあるだろうな、急所とか筋は同じなのに向きが変わると混乱したりするらしい
元の問題をA0とすると場所や位置を変えるとA1からA8まで出来そうですね
それでA1はよく出来てもA5とかA6になると怪しいみたいな・・・
そういう意味で場所と向きを変えて繰り返すのは正しいかもしれない。
私はFさんの向う4子で白1手目に星に小ケイマでかかるとしたならば、右上の星に右辺側からかかることに決めています。
同じ意味の・同価値の位置が盤上に8箇所ありますが、目先を変えるような打ち方はしたくない。
敢えて同じ位置から始めるわけです。
変えると、白自身に小手先の作為を感じてしまいます。
それこそ何処に打とうと自由なのですが右上に拘りがあります。
日本の棋譜では黒の1手目は右上と決まっているのですが、それは何時ごろからでしょうね・・・誰がきめたのでしょう?
昔の地下鉄漫才ではないけれど、考え始めると眠れなく・・・そんなことは無い
スタート時点で天元は一つしかない場所ですが、その他は同価値の場所が複数ある・・・ならば1手目は右上から・・・と言うのも棋譜を取ったり囲碁を研究する上での合理性でもあろうか。
ということは囲碁が進歩して行った時代、戦国時代だろうか江戸時代の家元制度が整っていく時代だろうか?
たった1手なんですが研究するときっと面白い
私には文献も資料も無いからただ空想するだけですが
ところで1手目の方向を決めるとして、それは何故右上方向か?
コレは相手に打ちやすい場所を残していく・・・例えば3子の置き碁で白の右手前を空けて置くみたいな意味だろうか?
今でもそうですが古くから右利き社会だったから右を空けて置くのかも
それでは何故左とは言え白の側の星を空けないのか?
白に敬意を表する意味があるのなら黒は自分の手前の右の星でもいいはず。
私の勝手な想像では、コレは見た感じと関係が有るような気がする
もし盤上に1個だけ石を置くとしたら・・・それを黒から見た棋譜として記録し絵として見るとしたら・・・
ポスターの視線を引きつける位置ではないけれど、それは右上か左上の星あたりでしょう。
黒1が右上星方向以外で(天元は別として)置かれていたら、なにやら落ち着かない気分になりはしないだろうか。
それはそういうものに慣れさせられた結果だろうか、それとも位置の持つ意味がそれを表しているような気がする
ともかく相手の右手での着手を考えて左上は空けておくとすれば、右上に限られてくるのかも。
さて何処に打っても同じなら右上からと言う感覚と、何処に打っても良いのだからほんとに何処に打っても・・・もし予想外の所から始まったら、石数が増えてくるまで何となく落ち着かなかったり、気持ちが悪かったりしそうです。