この話もマナー違反に関するものだけれど、作為あるいは悪意と言うより「困った爺様話」でもあり、今は懐かしく思い出される。
(尤も似たようなことで、少しわざとらしさを感じる人もいたけれど・・・)
面と向かって綽名で呼べる相手では無いと、密かに自分の心のうちでは綽名で呼ぶときもある。
あちらは社会的にも名があり、地位もある場合でも囲碁と言う遊びの世界では同好の士と言うことでして・・・
ですから綽名をつけたり、綽名で呼んだりは心の中の話ですから周囲も相手当人も知りません。
多少人の悪さを感じる後ろめたさも有りますが、マア許される範囲でしょう
そういう人の一人で私が密かに「ファ爺」と名付けた人がいました。
昔コンピューター的処理の話で「1でも0でもない」状態、色で言えば白でも黒でもない・まあ灰色の状態をファジーと呼び始めた時代です。
「どっちつかず」と言う意味で「ファ爺」と呼ぶにふさわしい人がいた。
実を言うと「ファ爺」と呼びうる人は何人もいたのだけれど、全く本人の意図的なものを感じない人はその人だけでした。
つまり真性ファ爺とファジイ的な爺様の違いでしょうか。
その方はすでに鬼籍に入っておりこの時期になると(お盆近くでもあり)懐かしく思い出される。
ファ爺のファジイたる所以の話が供養代わりになるといいのですが・・・
さてコンピュータのファジーは難しい問題でしょうが、囲碁に関しては至って単純・要するにどっちつかずの手、いやどっちつかずの場所なのです。
攻めるか・守るかのどっちつかずではなく、「1間トビ」なのか「2間トビ」なのかはたまた「小ケイマ」にも「大ケイマ」にも見える位置に打つ、そういう手なのです。
コレは意図して打っているのではないと思う・・・そう思いたいし、そうであってはならないけれど、後で実戦の進行上都合の良い所に確定されてははなはだ迷惑なことではある。
こういうことは後で問題にすればトラブル必至だと思うから私は常に相手に場所の特定を要求しました。
マア少し砕けた言い方で「後で都合の良いところへの移動は嫌ですよ」
実際は、碁盤のほぼ交点に石をずらしてもらうまでは断固打たない態勢です
本人も意識的な行為では無さそうなので、逆にいつも繰り返される・・・だから私も小姑みたいに要求を繰り返すと言うわけです。
着手の石の位置については交点に石の中央が来るように心がけているのですが、私自身も多少ズレます。
このズレは法則性があって・・・例えば1間飛んで早く中央へ逃げたい時はその方向に幾分ズレるし、横に展開したいときはその方向に・・・つまり気持ちが石のズレになって現れます。
コレは数ミリの問題、多分2,3ミリのズレだと思いますがはっきりと出るような気がします。
それは自分では分かる程度だとは思うが対局相手が注意してみていれば分かる程度・・・しかしあれ程の大きなズレは珍しい
彼は人生の大先輩でもあったし、意図的にそういう打ち方をする人でなく、言ってみれば大雑把な性格の表れでもあっただろうし、超早打ちの弊害でも有っただろう。
私以外の人が彼と対局する時、私ほどは拘っていなかったのは、「しょうが無い爺様だなあ」というおおらかな気持ちだったのでしょうね・・・私は1手毎に拘っていたけれど。
しかし似たような人同士が対戦すると傍目にも凄まじい様相を呈する
・・・と思うのは第三者の私だけのようで、当人同士は平然と打っている。
私などは平衡感覚がおかしくなるような目眩を感じるのですが・・・
偶には対局者同士が「コレはどっちだ?」とやっています、が、お互いの主張を認めてトラブルにはならない・・・そこのところも却って不思議。
いずれにせよどういう認識力なのだろうか?
ああいう状態の碁盤を見て考えられるのはきっと私など及びもつかないのだろう
私などは碁盤の交点の中央に石が無いと気持ちが悪いので気に入らない石があると直したくなるのです。
ただルール的に持ち上げて打ち直す形は問題があるので、親指の背中でオハジキをずらすみたいにソッと動かす。
自分の石でもそうですから、相手の石でも時として「失礼かな」とは思いつつも直したくなってウズウズするのです。
だからファ爺との対局は彼の「おおらかさ」対私の「ちまちま」の戦いでもあったと思う。
私は生前かなり爺様に可愛がってもらったと思う。
勿論実生活とか仕事ではなく囲碁のザル社会での話ですが。
爺様はやって来て、私が手空きだと前の席に黙って座り碁盤に石を2つ置いてからタバコに火をつけニコッと笑います。
(尤も似たようなことで、少しわざとらしさを感じる人もいたけれど・・・)
面と向かって綽名で呼べる相手では無いと、密かに自分の心のうちでは綽名で呼ぶときもある。
あちらは社会的にも名があり、地位もある場合でも囲碁と言う遊びの世界では同好の士と言うことでして・・・
ですから綽名をつけたり、綽名で呼んだりは心の中の話ですから周囲も相手当人も知りません。
多少人の悪さを感じる後ろめたさも有りますが、マア許される範囲でしょう
そういう人の一人で私が密かに「ファ爺」と名付けた人がいました。
昔コンピューター的処理の話で「1でも0でもない」状態、色で言えば白でも黒でもない・まあ灰色の状態をファジーと呼び始めた時代です。
「どっちつかず」と言う意味で「ファ爺」と呼ぶにふさわしい人がいた。
実を言うと「ファ爺」と呼びうる人は何人もいたのだけれど、全く本人の意図的なものを感じない人はその人だけでした。
つまり真性ファ爺とファジイ的な爺様の違いでしょうか。
その方はすでに鬼籍に入っておりこの時期になると(お盆近くでもあり)懐かしく思い出される。
ファ爺のファジイたる所以の話が供養代わりになるといいのですが・・・
さてコンピュータのファジーは難しい問題でしょうが、囲碁に関しては至って単純・要するにどっちつかずの手、いやどっちつかずの場所なのです。
攻めるか・守るかのどっちつかずではなく、「1間トビ」なのか「2間トビ」なのかはたまた「小ケイマ」にも「大ケイマ」にも見える位置に打つ、そういう手なのです。
コレは意図して打っているのではないと思う・・・そう思いたいし、そうであってはならないけれど、後で実戦の進行上都合の良い所に確定されてははなはだ迷惑なことではある。
こういうことは後で問題にすればトラブル必至だと思うから私は常に相手に場所の特定を要求しました。
マア少し砕けた言い方で「後で都合の良いところへの移動は嫌ですよ」
実際は、碁盤のほぼ交点に石をずらしてもらうまでは断固打たない態勢です
本人も意識的な行為では無さそうなので、逆にいつも繰り返される・・・だから私も小姑みたいに要求を繰り返すと言うわけです。
着手の石の位置については交点に石の中央が来るように心がけているのですが、私自身も多少ズレます。
このズレは法則性があって・・・例えば1間飛んで早く中央へ逃げたい時はその方向に幾分ズレるし、横に展開したいときはその方向に・・・つまり気持ちが石のズレになって現れます。
コレは数ミリの問題、多分2,3ミリのズレだと思いますがはっきりと出るような気がします。
それは自分では分かる程度だとは思うが対局相手が注意してみていれば分かる程度・・・しかしあれ程の大きなズレは珍しい
彼は人生の大先輩でもあったし、意図的にそういう打ち方をする人でなく、言ってみれば大雑把な性格の表れでもあっただろうし、超早打ちの弊害でも有っただろう。
私以外の人が彼と対局する時、私ほどは拘っていなかったのは、「しょうが無い爺様だなあ」というおおらかな気持ちだったのでしょうね・・・私は1手毎に拘っていたけれど。
しかし似たような人同士が対戦すると傍目にも凄まじい様相を呈する
・・・と思うのは第三者の私だけのようで、当人同士は平然と打っている。
私などは平衡感覚がおかしくなるような目眩を感じるのですが・・・
偶には対局者同士が「コレはどっちだ?」とやっています、が、お互いの主張を認めてトラブルにはならない・・・そこのところも却って不思議。
いずれにせよどういう認識力なのだろうか?
ああいう状態の碁盤を見て考えられるのはきっと私など及びもつかないのだろう
私などは碁盤の交点の中央に石が無いと気持ちが悪いので気に入らない石があると直したくなるのです。
ただルール的に持ち上げて打ち直す形は問題があるので、親指の背中でオハジキをずらすみたいにソッと動かす。
自分の石でもそうですから、相手の石でも時として「失礼かな」とは思いつつも直したくなってウズウズするのです。
だからファ爺との対局は彼の「おおらかさ」対私の「ちまちま」の戦いでもあったと思う。
私は生前かなり爺様に可愛がってもらったと思う。
勿論実生活とか仕事ではなく囲碁のザル社会での話ですが。
爺様はやって来て、私が手空きだと前の席に黙って座り碁盤に石を2つ置いてからタバコに火をつけニコッと笑います。