昨日、終局時に地を数えないでサッサと一方的に崩す”乱暴者”の話をしました
今日もその続編みたいなものです
「毎度馬鹿馬鹿しいお話にお付き合いいただきます」という出だしにピッタリかも知れません。
前にもお話したかも知れませんが、グーグルで「囲碁マナー」と検索すると高野さんのページが出てきます。
たいへん分かり易くまとまっていまして、私が昔道場に入門して師匠から教わったこととほぼ同じ・・・僅かに違うといえば「碁笥と碁笥の蓋の置き場所」くらい。
「碁笥は右手に置き」と有りましたが、私の教わったのは「利き腕側」で、私など途中で利き腕を変えざるを得なかったものには「利き腕」あるいは「石を打つ手の側」となっていると有りがたい。
マアこの辺は本質的な違いではない。
要するにマナーは「ルールに則って、お互いを尊重し気持ちよく打つ」ためのものだから、そういう気持ちさえあれば難しいことは何も無い。
常識から見たら当たり前の事とばかり・・・
ただ、気持ちは有っても、「ついつい」もある
その一つに石音がありそうです
先ほどの高野さんのページで紹介されているのは菅原道真の漢詩で大要は
「唐の人の言うには、日本人みたいに石音高く打ってみたい・・・」ということは当時の唐では大きな音で石を打ってはいけなかったわけですね。
それは盤をいためるとか、大事な石を傷めるとかの現実的な理由か、あるいはマナーとして石は打つものでは無いとされていたのか・・・「君子は石音高く打つものでは無い」みたいに想像する。
つまり石は「打つ』ものではなく「置く」のだと
私はこういう感じは好きですね、気合が入っているときほどソッと置きます。
でも周りには「何であれほど」というくらいに「打つ」人がいます。
よほど手首の機能が良くてスナップが利いてしまうのか、狙った所へ勢いよく打つコントロールが自慢なのか・・・
でも時として「この人は何か怒っているのか?」とか「形勢がいいと思って石音で表現しているのか?」あるいは「何か私を威嚇しているのか?」と考えてしまうこともある。
ある程度は気持ちが乗ってしまうのは仕方が無いかもしれませんが、程度問題で、それは絶対値と言うより個人差がありそうです
私などは勢いよく打たれると、それだけで「辟易」する方ですから、相手にとっては思う壺なのかも知れません。
でも合理的に考えれば、石は位置を表せばいいのですから打つ必要はなく、表すという意味で置けば用が足りるのでしょう。
相手に対する心理的圧迫感と言う作戦もあるのだろうか?
ザルレベルではあると思う
必要以上に自分の優位を強調し相手の焦りを誘うみたいな・・・
ともあれ私たちの使っている道具は安物ですから多少の傷はいいとしても、でも
スプルース盤なら確実に凹みが出来ます。
良い材質の碁盤なら硬質の石で傷がつくだろうし、逆に石がハマグリとか那智だったら、そちらが欠けるかも・・・
自分の極上の道具ならやらないだろうなァ
石を置く姿で私の印象に残っているのは、杉内寿子先生の打ち方ですね。
序盤か中盤の前半しか出来ないでしょうが、「着点のやや前に石を置き、スーっと目的地にずらす」コレが一連の打ち方ですが、着物姿で姿勢よく”決まって”いた。
こういう打ち方、それを美しいと見る感覚は日本人的なのかも知れません
確か中国の人からクレームがあったと聞いている・・・どうなったかはしりませんが
要するに「初めに置いたところが着点であって、ずらしたのはルール違反、あるいは2度打ち」
ルールを字句通りに解釈すれば違反になるかも・・・でも全部が一連の動きと見れば「一つの様式美」みたいな感じがするのですが・・・コレは国際的に解釈しなくてはいけないから難しいでしょう。
コレは棋士の国際的な問題・・・ザルには次元が低い問題があるのです
「着手はどういう形で着手と言うか」
つまり持った石が碁盤に触れた時で、そこの場所が着点となるか、
碁盤に置いた石から指が離れた時が着手で、その地点が着点となるか?
先ほどの先生の場合は大別すると後者に入りそう
でも、ザルはコレを勝手に解釈して悪用するのです・・・
「指が石から離れない内は着手が完了していない」>「肉付き」と言うらしい。
(コミュニティの相部屋の将棋クラブも・・・)
何となく説得力があるのだろうか・・・「指が離れない内は打ったことにはならない」と一方的に宣言、あるいは「常識」として、盤上に石を置いて指をつけたまま考える人もいる。
つまり考えた結果一旦盤上に置いた石を取上げてに戻す権利を保留しているというわけです。
全くルール以前に見っとも無いと思わないだろうか?
「着手が決まるまでは石に触れない」という戒めがあります。
「着点が決まってから石を持つ」のですから、置いて考えるなど論外
それでも迷う時はあるとしても、盤に触れてから止めるとは・・・
対局姿に美しさを感じたり、その人の品性とか人間性を感じないのだろうか?
リアルではそういう人も意外と多いのです
お前もその仲間だろうと言われると・・・
自分が打った瞬間、相手が石を持つよりも早く碁笥に手を突っ込む人、いつも数個の石をジャラジャラさせている人、そういう人種には多いかも
今日もその続編みたいなものです
「毎度馬鹿馬鹿しいお話にお付き合いいただきます」という出だしにピッタリかも知れません。
前にもお話したかも知れませんが、グーグルで「囲碁マナー」と検索すると高野さんのページが出てきます。
たいへん分かり易くまとまっていまして、私が昔道場に入門して師匠から教わったこととほぼ同じ・・・僅かに違うといえば「碁笥と碁笥の蓋の置き場所」くらい。
「碁笥は右手に置き」と有りましたが、私の教わったのは「利き腕側」で、私など途中で利き腕を変えざるを得なかったものには「利き腕」あるいは「石を打つ手の側」となっていると有りがたい。
マアこの辺は本質的な違いではない。
要するにマナーは「ルールに則って、お互いを尊重し気持ちよく打つ」ためのものだから、そういう気持ちさえあれば難しいことは何も無い。
常識から見たら当たり前の事とばかり・・・
ただ、気持ちは有っても、「ついつい」もある
その一つに石音がありそうです
先ほどの高野さんのページで紹介されているのは菅原道真の漢詩で大要は
「唐の人の言うには、日本人みたいに石音高く打ってみたい・・・」ということは当時の唐では大きな音で石を打ってはいけなかったわけですね。
それは盤をいためるとか、大事な石を傷めるとかの現実的な理由か、あるいはマナーとして石は打つものでは無いとされていたのか・・・「君子は石音高く打つものでは無い」みたいに想像する。
つまり石は「打つ』ものではなく「置く」のだと
私はこういう感じは好きですね、気合が入っているときほどソッと置きます。
でも周りには「何であれほど」というくらいに「打つ」人がいます。
よほど手首の機能が良くてスナップが利いてしまうのか、狙った所へ勢いよく打つコントロールが自慢なのか・・・
でも時として「この人は何か怒っているのか?」とか「形勢がいいと思って石音で表現しているのか?」あるいは「何か私を威嚇しているのか?」と考えてしまうこともある。
ある程度は気持ちが乗ってしまうのは仕方が無いかもしれませんが、程度問題で、それは絶対値と言うより個人差がありそうです
私などは勢いよく打たれると、それだけで「辟易」する方ですから、相手にとっては思う壺なのかも知れません。
でも合理的に考えれば、石は位置を表せばいいのですから打つ必要はなく、表すという意味で置けば用が足りるのでしょう。
相手に対する心理的圧迫感と言う作戦もあるのだろうか?
ザルレベルではあると思う
必要以上に自分の優位を強調し相手の焦りを誘うみたいな・・・
ともあれ私たちの使っている道具は安物ですから多少の傷はいいとしても、でも
スプルース盤なら確実に凹みが出来ます。
良い材質の碁盤なら硬質の石で傷がつくだろうし、逆に石がハマグリとか那智だったら、そちらが欠けるかも・・・
自分の極上の道具ならやらないだろうなァ
石を置く姿で私の印象に残っているのは、杉内寿子先生の打ち方ですね。
序盤か中盤の前半しか出来ないでしょうが、「着点のやや前に石を置き、スーっと目的地にずらす」コレが一連の打ち方ですが、着物姿で姿勢よく”決まって”いた。
こういう打ち方、それを美しいと見る感覚は日本人的なのかも知れません
確か中国の人からクレームがあったと聞いている・・・どうなったかはしりませんが
要するに「初めに置いたところが着点であって、ずらしたのはルール違反、あるいは2度打ち」
ルールを字句通りに解釈すれば違反になるかも・・・でも全部が一連の動きと見れば「一つの様式美」みたいな感じがするのですが・・・コレは国際的に解釈しなくてはいけないから難しいでしょう。
コレは棋士の国際的な問題・・・ザルには次元が低い問題があるのです
「着手はどういう形で着手と言うか」
つまり持った石が碁盤に触れた時で、そこの場所が着点となるか、
碁盤に置いた石から指が離れた時が着手で、その地点が着点となるか?
先ほどの先生の場合は大別すると後者に入りそう
でも、ザルはコレを勝手に解釈して悪用するのです・・・
「指が石から離れない内は着手が完了していない」>「肉付き」と言うらしい。
(コミュニティの相部屋の将棋クラブも・・・)
何となく説得力があるのだろうか・・・「指が離れない内は打ったことにはならない」と一方的に宣言、あるいは「常識」として、盤上に石を置いて指をつけたまま考える人もいる。
つまり考えた結果一旦盤上に置いた石を取上げてに戻す権利を保留しているというわけです。
全くルール以前に見っとも無いと思わないだろうか?
「着手が決まるまでは石に触れない」という戒めがあります。
「着点が決まってから石を持つ」のですから、置いて考えるなど論外
それでも迷う時はあるとしても、盤に触れてから止めるとは・・・
対局姿に美しさを感じたり、その人の品性とか人間性を感じないのだろうか?
リアルではそういう人も意外と多いのです
お前もその仲間だろうと言われると・・・
自分が打った瞬間、相手が石を持つよりも早く碁笥に手を突っ込む人、いつも数個の石をジャラジャラさせている人、そういう人種には多いかも