昔の父親はたいてい無口な人が多かったように思うのですが、多分それはプロトタイプ的な昔堅気・職人気質的な父親像でしょうネ、本当に必要なことはしゃべった筈ですし。
歌については私の父親は家で歌を歌わなかった、歌っている声を聞いたことが無い人でした。
変に固物かと言うとそうでも無さそうなので、単に歌わない人だと思っていたところ・・・外での話・取引先の人の話を聞くと「宴会ではよく歌っていますよ」。
当時は子供心にも父は家の中で権威を保つため、敢えて歌を歌わないと言うことにしているのだろうと想像していたのですが、今思うと少し視点がずれていたように思うところも有ります。
音楽が嫌いでは無かったようでラテン系の音楽レコードとか映画音楽のレコードなどは買って来ていたし、ステレオだって自分で買って来ていましたし。
(一番上の姉はダンスが大好きで、社交ダンスではセミプロ的な腕前だったらしいので・・・これが父と仲が悪そうに見える原因だったのですが・・・若しかしたら父がステレオなどを家族に相談しないで、一見衝動的に買って来たのは、姉のことを考えていたのかも知れませんが、そこのところは真相は分かりません)
私の想像では、私と同じように「歌は嫌いではないが、得意ではないので人前で歌う気持ちにはならない」そして「つき合いの宴会では、”営業上”歌っていた」そんなところだろうと想像できる。
ところで、父もそうですが母の歌も聞いたことが無い。
こちらは外で宴会など無いのだから、本当に不得意だったのか、父が歌わないので単なるツツシミだったのかは分かりませんが、全く歌っていないような気がします。
時代はずれますが私の家では女房殿などは、率先してと言うか堂々と歌っている・・・鼻歌も歌うし、気分が良ければ口笛だって吹く・・・それは時代の差なんでしょうか。
母の年を数えると(既に亡くなっていますが)、生きていれば大正生まれですから95才か96才になる・・・。
そう言えば「時代を感じる」事も有りました。
よく時代劇で貧乏浪人の生活では、母親は頼まれて縫物の内職をしている設定が多い、漫画の「赤胴鈴の助(介だっけ)」でも母親は内職で縫物をしていた。
私の母も内職で縫物・・・町の呉服屋さんに頼まれて縫っていました。
家の中では、仕立て直しとか洗い貼り、平たい長い板、くけ台、クジラ尺・・・そういうものに囲まれていたとも言えます。
父も工場長とは言え零細な中小企業の工場長だったし、子供が5人もいるのですから内職は必要だったのでしょう。
少なくともアルバイトと言うものが無かった時代ですから、何がしかの収入を得るには必要だった筈です。
それに、戦後10年くらいの時代で、洋服が主流になる時代、和服は特別な時に着るようになって来ていました。
冠婚葬祭では着ていましたが、他には父兄会の時とか・・・それも着ない人も増えて来ていました。
夏祭りの浴衣だって頼まれて縫っていたり(これは一日に何枚も縫えるので、見ている間に出来て行くので驚いて見ていた記憶があります)。
和服だけでなく、子供の服の半分はミシンを使って母の手作りでしたので、オーバーに言うとサウンドオブミュージックみたいに姉二人と私が同じ柄の布で出来た夏服だったりも有りました。
さてさて、時代劇での貧乏浪人の象徴は肩当て付きの着物と「傘貼り」「縫物の内職」なんですが、母も頼まれて縫物を・・・
時代劇のヒーローの母親は、しっかり者で無口で辛抱強く、縫物がプロトタイプですが・・・そこのところが時代性と言うか少し違っていて、武士の母親では無く町人タイプですから、どちらかと言えば(イエ、かなり)おしゃべり。
但し歌は歌わない・・・これは多分本当に相当に下手だったのでしょうね、上手ければ人前で絶対遠慮せずに歌う筈です。
ある時女房殿に「あなたのお母さんはおしゃべりだから・・・」みたいに・・・成程その通りですが、付随するイメージが悪い:無口の方がレベルが高くておしゃべりの方が低レベルみたいなイメージ。
そういう評価は全く否定は出来ないが、家の雰囲気のもとになっている効果も考慮材料ではあると言う弁護出来る。
ともあれその母のDNAを私も半分は受け継いでいる筈。
それで、その遺伝的気質を空気中に撒き散らさないで、ブログを借りて発散しているのだと言う事が分かりました・・・成程私についてはそういうことだったのです。
歌については私の父親は家で歌を歌わなかった、歌っている声を聞いたことが無い人でした。
変に固物かと言うとそうでも無さそうなので、単に歌わない人だと思っていたところ・・・外での話・取引先の人の話を聞くと「宴会ではよく歌っていますよ」。
当時は子供心にも父は家の中で権威を保つため、敢えて歌を歌わないと言うことにしているのだろうと想像していたのですが、今思うと少し視点がずれていたように思うところも有ります。
音楽が嫌いでは無かったようでラテン系の音楽レコードとか映画音楽のレコードなどは買って来ていたし、ステレオだって自分で買って来ていましたし。
(一番上の姉はダンスが大好きで、社交ダンスではセミプロ的な腕前だったらしいので・・・これが父と仲が悪そうに見える原因だったのですが・・・若しかしたら父がステレオなどを家族に相談しないで、一見衝動的に買って来たのは、姉のことを考えていたのかも知れませんが、そこのところは真相は分かりません)
私の想像では、私と同じように「歌は嫌いではないが、得意ではないので人前で歌う気持ちにはならない」そして「つき合いの宴会では、”営業上”歌っていた」そんなところだろうと想像できる。
ところで、父もそうですが母の歌も聞いたことが無い。
こちらは外で宴会など無いのだから、本当に不得意だったのか、父が歌わないので単なるツツシミだったのかは分かりませんが、全く歌っていないような気がします。
時代はずれますが私の家では女房殿などは、率先してと言うか堂々と歌っている・・・鼻歌も歌うし、気分が良ければ口笛だって吹く・・・それは時代の差なんでしょうか。
母の年を数えると(既に亡くなっていますが)、生きていれば大正生まれですから95才か96才になる・・・。
そう言えば「時代を感じる」事も有りました。
よく時代劇で貧乏浪人の生活では、母親は頼まれて縫物の内職をしている設定が多い、漫画の「赤胴鈴の助(介だっけ)」でも母親は内職で縫物をしていた。
私の母も内職で縫物・・・町の呉服屋さんに頼まれて縫っていました。
家の中では、仕立て直しとか洗い貼り、平たい長い板、くけ台、クジラ尺・・・そういうものに囲まれていたとも言えます。
父も工場長とは言え零細な中小企業の工場長だったし、子供が5人もいるのですから内職は必要だったのでしょう。
少なくともアルバイトと言うものが無かった時代ですから、何がしかの収入を得るには必要だった筈です。
それに、戦後10年くらいの時代で、洋服が主流になる時代、和服は特別な時に着るようになって来ていました。
冠婚葬祭では着ていましたが、他には父兄会の時とか・・・それも着ない人も増えて来ていました。
夏祭りの浴衣だって頼まれて縫っていたり(これは一日に何枚も縫えるので、見ている間に出来て行くので驚いて見ていた記憶があります)。
和服だけでなく、子供の服の半分はミシンを使って母の手作りでしたので、オーバーに言うとサウンドオブミュージックみたいに姉二人と私が同じ柄の布で出来た夏服だったりも有りました。
さてさて、時代劇での貧乏浪人の象徴は肩当て付きの着物と「傘貼り」「縫物の内職」なんですが、母も頼まれて縫物を・・・
時代劇のヒーローの母親は、しっかり者で無口で辛抱強く、縫物がプロトタイプですが・・・そこのところが時代性と言うか少し違っていて、武士の母親では無く町人タイプですから、どちらかと言えば(イエ、かなり)おしゃべり。
但し歌は歌わない・・・これは多分本当に相当に下手だったのでしょうね、上手ければ人前で絶対遠慮せずに歌う筈です。
ある時女房殿に「あなたのお母さんはおしゃべりだから・・・」みたいに・・・成程その通りですが、付随するイメージが悪い:無口の方がレベルが高くておしゃべりの方が低レベルみたいなイメージ。
そういう評価は全く否定は出来ないが、家の雰囲気のもとになっている効果も考慮材料ではあると言う弁護出来る。
ともあれその母のDNAを私も半分は受け継いでいる筈。
それで、その遺伝的気質を空気中に撒き散らさないで、ブログを借りて発散しているのだと言う事が分かりました・・・成程私についてはそういうことだったのです。