雑誌『ゆたかなくらし』に投稿した「生の靖国問題」の原稿から抜粋したものです。
「A級戦犯十四人の合祀名簿」
A級戦犯の祭神名票は一九六六(昭和四一)年に送付されましたが神社側が合祀をしたのは一九七八(昭和五三)年であり、新聞報道で国民が知るのは翌年のことであります。なぜ一二年間の空白があったのでしょうか。
靖国神社は『そこまで遅れたのは、昭和三〇年代から五一年九月にまでわたって長引いていた、靖国神社国家護持法案の国会審議(法案は四九年に廃案)などとの絡みで、全く国内的な政治情勢で戦犯呼ばわりされている故にためらったというわけではないのです。何しろ国会決議に支えられての合祀可能という認定だったのですから。』と言い訳をしています。(「正論」臨時増刊号「靖国と日本人の心」)
ところが一九七八(昭和五三)年三月神社宮司筑波藤磨氏が急逝し、七月に新に就任した第五代松平永芳氏は『諸君』(一九九二年一二月号)の『「靖國」奉仕十四年の無念』に驚くべき真相を述べていました。
『いわゆるA級戦犯合祀のことですが、私は就任前から、「すべて日本が悪い」という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々書類や総代会議事録を調べますと、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預りとなっていたんですね。私の就任したのは五三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、「まだ間にあうか」と係に間いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、十四柱をお入れしたわけです。合祀祭の翌日秋季例大祭の当日祭と、その次の日においでになったご遺族さん方に報告したわけです。「昨晩、新しい御霊を千七百六十六柱、御本殿に合祀申し上げました。この中に」――ここを、前の晩、ずいぶん考えたんです。「東条英機命以下…」というと刺激が強すぎる。戦犯遺族で結成している「白菊会」という集りがありますので――「祀るべくして今日まで合祀申し上げなかった、白菊会に関係おありになる十四柱の御霊もその中に含まれております」』
戦前の合祀手続きは陸海軍大臣から上奏「裁可」を経ていました。終戦後は旧陸海軍の取扱った前例を踏襲して、合祀の取扱いを決定したとなっているとしか神社から公表されていなっかたのですが、同氏の証言から戦後も天皇に上奏簿が提出され、事実上の「裁可」が継続していたことが歴史上明らかになりました。そして、図らずも「富田朝彦元宮内庁長官のメモ」と「卜部侍従日記」にある「天皇の心」の経緯が証明されているのです。