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UR都市機構の区画整理事業から、明治5年の品川停車場と初めての鉄道と道路の立体交差「八ツ山橋」が出土するか?

2021年06月29日 | 鉄道の歴史と高輪築堤問題

昭和48年(1973年)刊行東京南鉄道管理局編「汐留・品川・櫻木町驛百年史」には、次のような記述があります。
停車場の建設
 品川駅は最初、現在のところ(港区芝商輪南町64番地)からやや南方の芝高輪南町16番地の八ッ山下の海浜に沿う線路用埋立地の中につくられ、大波のときにはときどき線路を洗うこともあった。
  停車場の本屋は明治4年9月に着工し、5年1月20日に落成、面積は4130坪5合2勺3才(1万3654.6平方メ-トル)で、建設費は750ポンド。品川停車場は中間停取場で、建設は新橋~横浜間でもっとも早く、和洋折衷の木造平屋2楝を本屋とし、ほかに乗降客通行用の跨線人道橋(錬鉄製のラチス形桁で40フイートのもの)が設 けられていた。なお、プラットホームが初めから2本あったものかどうかは不明である。
  品川は八ッ山から御殿山までを切取って線路が敷設されたので、当然この上に橋が架けられた。この橋がすなわち東海道往還の八ツ山橋粱である。停車場は八ッ山橋梁の西側にあり、神奈川の青木橋粱とともに、鉄道と道路との立体交差の最初のものであった。明治29年、駅構内の拡張でほぼ現在のところに移転し、その後、大正5年5月1日に品川駅構内拡張工事が竣功している。
  現在の駅舎は昭和12年12月25日に改築に着手したが、日華事変、太平洋戦争と続いたため一時改築を中止した。戦後の昭和26年10月31日、ようやく再工事に着手し、昭和28年4月16日竣功して現在にいたっている。

品川区立品川歴史館2012年10月刊行「鉄道開通140周年記念:品川歴史館特別展図録『品川鉄道事始ー陸蒸気が品川を走るー』付録図より

この「品川停車場」と「八ツ山橋」を独立行政法人UR都市機構が「品川駅街区地区土地区画整理事業」として、面積約2.9ヘクタール、事業期間平成31年度から令和19年度(清算期間含む)として施行しています。土地区画整理事業の場合は、40ヘクタール以上が「東京都環境影響評価」(環境アセス)が該当しますので、当事業は該当しません。

東京都環境局「東京都環境影響評価技術指針(付解説)東京都環境影響評価事後調査基準」に下記の調査事項があります。 
『調査事項は、対象事業の種類及び規模並びに地域の概況を勘案し、対象事業の実施が文化財等に及ぼす影響を適切に把握し得るよう十分に配慮して、次に掲げる事項のうちから予測及び評価を行うために必要なものを選択する。 
ア 文化財の状況 
文化財の状況は、次に掲げる事項のうちから予測及び評価を行うために必要なものを選択し、調査する。イ 周知されていない埋蔵文化財包蔵地の有無
2 「イ 埋蔵文化財包蔵地の状況」
周知されていない埋蔵文化財包蔵地とは、埋蔵文化財の存在は確認されていないが、存在の可能性が高いと判断される土地をいい、この場合は、埋蔵文化財の存在の可能性のある土地の範囲、地形及び土地利用の状況を調査する。
⑶ 調査に際しては、調査地域を所管する教育委員会、所有者、管理者等の意見を参考にする。』

管理人は、ここに着目して「東京都環境影響評価技術指針」を準用し、事業者のUR都市機構に対して指導するよう、都倉俊一文化庁長官、藤田裕司東京都教育庁教育長、浦田幹男港区教育委員会教育長に対して陳情書を郵送しました。

UR都市機構「品川周辺土地区画整理事業」パンフから作図



同じく「品川周辺地区」より

(了)

 

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