『宗教法人「創価学会」の名誉会長、池田大作氏が15日、死去。95歳。創価学会が18日公表した。近親者で家族葬を営んだ。お別れの会を後日開く。』との報道がありました。15日夜半に亡くなったのに18日に公表した事由は、創立記念日に合わせたと考えられます。死亡診断書は死亡原因を老衰と医師が15日に書き、その日に死亡届を新宿区役所へ提出し、焼骨・埋葬許可書を受け取った。そして東京博善社落合斎場特別殯館で荼毘に付したと思われます。
聖教新聞社ホームページから「池田主任副会長と原田会長談話」
早速、創価学会本部がある信濃町で写メしてきました。主な建物には創価学会三色旗の半旗が掲揚されていましたが、信濃町商店振興会ポールに「ようこそ信濃町へ 祝 11・18 創価学会創立記念」のフラッグが並んでいました。驚いたことは、本局だった「四谷郵便局」が特定郵便局「信濃町駅前郵便局」に移転して空地になっていたことです。何れは創価学会が買収することになるでしょう。
「日本共産党の百年」184頁から「創共協定」に関する部分を抜粋します。
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(略)作家の松本清張氏をつうじて、創価学会から交流と共同が党に申し入れられました(七四年十月)。党は、公明党が反共主義の立場をとっているもとでは、安定的な交流・共同は不可能だと考え、そのことを創価学会に指摘しました。創価学会は、反共主義の立場をとらないことを今後の基本態度とすると確約し、公明党がどんな態度をとっても、それを創価学会と日本共産党との関係に影響させないと言明しました。党は、その確認にもとづいて、申し入れに応じ、協議の結果、十二月、「日本共産党と創価学会との合意についての協定」をむすび、翌日、この話し合いの全体をしめくくるものとして、宮本委員長と池田創価学会会長との会談もおこなわれました。「協定」は、創価学会が「科学的社会主義、共産主義を敵視する態度はとらない」 ことを明記し、双方が平和と核兵器廃絶などの問題で努カ、協調することを合意したものでした。
党は、十二月末の中央委員会総会でこの協定を確認し、その内容と精神をまもる対処をおこないました。これにたいし、創価学会は、公明党の抵抗があることを口実に協定の発表をしぶり、七五年七月の発表のさいには、協定によって「共産党との敵対関係は変わらない」ことを内部で確認するなど、卑劣な対応に終始しました。
これらの経過は、創価学会の申し入れがかれらへの批判をかわす術策であり、協定の実行に責任を負う意思がないことをしめすものでした。こうして協定は死文化し、党は、七五年十二月の中央委員会総会で、協定をめぐる経過と創価学会にたいする原則的批判を明らかにしました。協定は、十年後に「再協定」を協議するとしていましたが、党は、八四年十月の中央委員会総会で、死文化した協定は、「死文として葬る」ことを確認しました。(略)
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毎日新聞「池田大作宮本顕治人生対談」の中に、池田が宮本の街頭演説を聞いたことがあると話をしています。宮本は日本共産党東京一区候補者になったことがありますので、池田が大蔵商事に勤務していた時に市ヶ谷駅前での街頭演説を聞いたのでしょう。(敬称略)
「大蔵商事営業部長の名刺」デイリー新潮より
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(了)