web版毎日新聞に『映画:賛否両論「風立ちぬ」 「感動」×「違和感」』という記事が掲載されました。
「感動した」「よく分からない」--。スタジオジブリの宮崎駿監督(72)最新作「風立ちぬ」への評価が割れている。旧日本軍の戦闘機「ゼロ戦」を設計した故堀越二郎氏の青春をフィクションを交えて描き、7月20日の公開以来の観客動員数は450万人、4週間連続の1位と期待通りの大ヒット。にもかかわらず、である。この映画、どう見ればいいのだろうか。
物語は少年時代から「美しい飛行機」に憧れる二郎が三菱内燃機(三菱重工の前身)に入社し、戦闘機の設計に打ち込む姿と、結核を病むヒロイン・菜穂子との出会いと別れを描く。折々に、イタリアの著名な飛行機設計士・カプローニと語り合う二郎の「夢」が挟み込まれる。【吉井理記】
「美しい飛行機」に憧れる二郎だったが、時代はそれを許してくれず戦闘機の設計技師にならざるを得なかった。「その時代とはどのような時代であったのか」を宮崎監督は訴えたかったのだろうと思いますが。監督自身がヒコーキマニアであるからといって「戦闘機ゼロ戦」をモチーフにしたのか理解に苦しみます。「戦闘機ゼロ戦」は紛れもない「大日本帝國海軍の兵器」なのです。ますますアニメ「風立ちぬ」は観たくなくなりました。
以下《NHK取材班編 太平洋戦争 日本の敗因3 電子兵器「カミカゼ」を制す》より引用
「ゼロ戦の設計の基本は極端な軽量化にあった。スピードを速め、上昇能力を高め、航続距離を延ばす、つまり空戦性能を強化するために軽く作るということだけに労力が払われている飛行機です。
ゼロ戦は繊細でスマートで美しい飛行機としてうつるかもしれないが、しかし戦場ではもろく、守りには弱い飛行機だったのである。ゼロ戦は「防御」「防弾」の装備がなく、攻撃を受けるともろいという弱点をもっていた。この点についてはに多くの航空機の専門家や軍事史家が指摘しているが、アメリカはこのゼロ戦の弱点を狙って、新型の戦闘機や戦法を考案したのである。
しかし、日本のゼロ戦設計者たちは、ただむやみに「防御」「防弾」を軽視したわけではない。そこには日本独自の航空機に対する設計思想があった。
F6Fヘルキャットは、開発の最初からゼロ戦を撃滅するために設計され、量産され戦場に投入された。
グラマン社の設計チームは、まずゼロ戦の性能を調べるために、ゼロ戦と戦った兵士から聞き取り調査をした。また捕獲されたゼロ戦を実際に視察し、その性能を細かく分析した。設計者の一人は、はじめてゼロ戦を見た時の印象を次のように語った。
「私たちグラマン社のデザイナーがゼロ戦をはじめて見たのは、フィラデルフィアの海軍の飛行機工場でした。私たちがまず驚いたのはゼロ戦の軽さです。どうやったらあんなに軽い戦闘機が作れるのか、不思議に思ったくらいです。
戦闘機としてしっかりとした性能を備えていたので決してもろいとはいえませんが、問題は弾があたった時に壊れやすいことでした。アメリカの戦闘機は、弾があたっても簡単にほ壊れません。『グラマンの戦闘機は鉄のように強い』と前線の兵士によくいわれました。もちろん鉄ではありませんが、ゼロ戦にくらべたら、私たちの飛行機は鉄のように強かったかもしれません」
こうした分析調査の結果から、ゼロ戦より高い性能をもつ戦闘機の開発が始まった。しかし、グラマン社のスタッフがこの開発で最も苦心し、技術的に解決を迫られたのは、ゼロ戦の空戦性能を上回る性能にするためには、より高馬力のエンジンを装備しなければならない。また、ゼロ戦が犠牲にした防御・防弾を施すために、その分だけ重量がふえる。そのためさらに高馬力のエソジンが必要となる。そして、高い出力のエンジンは大型になり、それを格納する機体も大型化してしまうのである。
これが陸上機ならばそう問題はないのだが、艦載機の場合、深刻な問題となる。限られたスペースしかない空母の艦内に、どれだけの戦闘機を搭載できるかは、艦隊全体の攻撃力に影響をあたえるからである。
グラマン社のデザイナーたちは、この間題に直面した。
「海軍からはF6Fの機動力、上昇力を向上させると同時に、敵と戦うのに充分な数を揃えることが求められました。数を揃えるということは、できるだけ多くの戦闘機を空母に載せられるようにすることでした。私たちには、まず大きさの制限があたえられ、そのなかで性能を向上させる課題があたえられたのです」
この難しい条件を設計者たちはひとつのアイデアを考案して、解決したのである。それは戦闘機の翼を、折りたたみ式のデザインにすることだった。
「結局、ゼロ戦に対抗するためにはどうしても大型の戦闘機にならざるをえなかったのです。ですから格納の方法に何かよいアイデアはほかにはないかとスタッフと話し合いました。そこで、考え出されたのが、翼を後ろに反り返るように折りたたむデザインでした。
つまり、鳥は飛んでいる状態では翼をいっぱいいっぱいに広げるが、ふだん翼は背中に添うように収められています。それを真似たのです。その結果、二機しか収納できなかったスペースに五機収納できたのです。これには海軍の首脳部も大喜びしました」
こうしてアメリカ海軍の新型戦闘機F6Fヘルキャットは、一九四二年六月に第一号の試作機が完成し、テスト飛行が行なわれた。海軍はその性能に満足した。そして一〇月から量産が開始された。一翌年一九四三年一月には、空母「エセックス」に配備され、太平洋戦争にデビューする。
太平洋戦争の期間中、F6Fヘルキヤツトは一万二二七四機生産された。マリアナ沖海戦の時には、アメリカ第五八機動部隊の主力として日本の攻撃隊やゼロ戦を迎え撃ったのである。
「アメリ力海軍の防御思想」
アメリカ軍が日本軍と違ってパイロットの生命を守ろうとしたのは、人命を尊重することにくわえて、パイロットの喪失が大きな代償をともなうことを冷静に判断していたからである。当時、一人前のパイロットをひとり育成するためには、二年の歳月とおよそ七万五〇〇〇ドルの費用が必要といわれていた。現在の金額に換算すると約二億円になる。
さらに戦争全体が「航空戦時代」に突入し、戦力としてパイロットを失うことは、それ自体が戦局の不利を招く要因となる恐れがあった。こうした合理的な判断から、アメリカ海軍は航空機りパイロットを最大限、敵の攻撃から守ろうと考えたのである。
戦闘機や爆撃機に充分な防御・防弾の装備を施したのもそのためである。またアメリカ海軍は、これ以外にもパイロットを守るためにさまざまな装備や訓練を施していた。
例えば戦闘機や爆撃機には「救命キット」と呼ばれる袋が載せられていた。これには救命具、救命胴衣、薬品、保存食糧、魚釣りの道具、海面に色を付けて救助隊に居場所を知らせる特殊な染料などが一式揃えられていた。パイロットが、パラシュートで海上に脱出した場合に備えてのものである。
これにくらべて日本は、パラシュートを付けるのが精一杯で、なかにはそのパラシュートでさえ装備されなかったこともあったという。
またアメリカ海軍は海戦が行なわれる場合、必ずその区域の海面に潜水艦を待機させ、攻撃を受けて脱出をはかったハイロットの救助にあたらせた。そのための訓練も通常から行なわれていた。パイロットの救助は作戦の一部でもあった。
こうした配慮は、パイロットの育成時にパイロットたちに伝えられ、彼らが安心して戦えるように指導がなされたのである。
ワシントン国立公文書館に『空戦海域における救助と着水』という戦闘報告書が保存されている。この報告書には一九四四年一月から五月までの、第五八機動部隊の救助活動の様子がまとめられている。そして、これまで準備、訓練を重ねてきた救助方法が、実際の戦闘でも確実な成果をあげていることが述べら、とくに部隊の兵士にもたらした心理的な効用が、次のように記述されている。
「私たちが太平洋地域で為し遂げた救助活動は、連隊の士気そのものを高める結果となった。パイロットたちは、敵機の前でひるむことなく、果敢に敵の中に飛び込んでいったのである。」「戦闘中でも、常に安心感みたいなものがありました。潜水艦が待機していて、いつでも救助してくれる、水上飛行機がやってきて助け出してくれる、そういうことが私たちの意識の奥に焼きついていたのはたしかです。そのおかげで、私たちは敵の中に思いきって突っ込む勇気をもつことができたのです。もし被弾したとしても飛行機はすぐには燃えないし、いざとなれば海に脱出すればよかったのです。私も経験がありますが、味方に救助された時ほど嬉しいことはありません」
日本は特攻隊に見られるように、死ぬ覚悟をすることで能力を発揮させようとしたのだが、アメリカは必ず生きて帰れることでパイロットを勇気づけ、その能力を最大限に発揮させた。私たちは、死ぬ覚悟で悲壮に戦った日本人よりも生きる覚悟で戦ったアメリカ人のほうが、もしかしたら勇敢だったかもしれないとの思いを強くしたのだった。
尚、この書籍には 『戦いを制したエレクトロニクス技術』として、アメリカの秘密兵器「VT信管」についての詳細な記述があります。
管理人は、靖国神社ガイドで遊就館「大展示室」特攻兵器「桜花」のジオラマを説明する時には必ず「VT信管」についても説明をしていました。
娘達が映画を見てきました。
私はまだ見ていませんが
面白そうな映画ですね~~♪
毎日新聞の記事私も読みました。でも私たちがすべきなのは映画を無視する事ではなく、批判する事だと思います。それを宮崎駿自身も望んでいると思います。詳細は弊ブログに書きましたのでよかったらどうぞ。
http://d.hatena.ne.jp/zames_maki/20130823