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「731部隊展記念シンポ」報告

2013年09月20日 | 人骨の会・731部隊・石井四郎

管理人は「軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会・代表常石敬一神奈川大学教授」の会員でもあり、91年には調査団の一員として訪中もしている「究明する会」の「ニュース№163号2013・9・15」が届きました。その中の「731部隊展開催20周年記念シンポジウム」について転載します。

・・・・・・・・・・・以下原文(管理人が一部補足)・・・・・・・・・・・・

8月29日~31日、明治大学リバティタワーの235教室で新生「731部隊パネル展」を開催。翌9月1日には1011教室で記念シンポジウムが開催されました。シンポジウムでは、中国常徳市の細菌戦犠牲者遺族、李宏華氏・易友喜氏とともに七三一部隊犠牲者遺族の代表として張文善(本名張恵忠)の遺児である張可偉さんが証言されました。
 張可偉さんは、哈爾浜市平房区731記念館(侵華日軍第731部隊罪証陳列館)の書記、単張清さんとともに29日夜に来日、30日は民主党の相原久美子、神本みえ子両参議院議員と面会、31日は午前中に国立感染症研究所内納骨施設を訪問。午後は部隊展会場で証言。本番の9月1日は、吉中丈志医師(「戦争と医の倫理」の検証を進める会)や明治大学山田朗教授・登戸研究所資料館館長らとともに壇上に並び、トップバッターとして証言しました。張さんの主張は一貫して、自分の父を奪った日本の軍国主義を憎むが、日中の友好と平和を求める立場です。日本の教科書問題などにも関心が深く、右傾化を心配しておられます。シンポジウム終了後、お酒を酌み交わし、ようやくほつとした様子でした。因みに最終日の通訳はいつも「人骨問題を究明する会ニュース」要約の翻訳でお世話になつている王淑敏さんでした。91年の調査団訪中の時は、中国側で通訳を務めてくださった方ですので、古いニュース読者の中には懐かしく思い出される方もあつたと思います。
 その後、張さんらは京都で証言活動をこなし、9月4日、関西空港から無事帰国されました。なお、「731部隊パネル展」は、引き続き明治大学生田校舎登戸研究所資料館(館長・山田朗)にて、無料公開中です(10月26日まで)。

*張可偉(チャン・クゥ・ウィ)
 1939年生まれ。現在錦州市に住む。1941年彼が2歳で牡丹江に住んでいたとき、牡丹江事件が起こり、父・張恵忠(当時は張文善と名乗っていた)と母・龍桂潔が憲兵隊に逮捕された。その後母は釈放され帰還したが、父親はそのまま行方不明となつている。憲兵隊から731部隊に送られた可能性は否定できない。1991年に新宿区戸山で多数の人骨が発見され、93年に日本から731部隊被害者遺族を探す調査団が訪中したとき、弟の張可達(チャン・クゥ・タア・当時は〇歳)とともに、調査団と面会し、人骨の身元調査と、父と判明した場合の遺骨返還を求める要請書を日本政府に提出している。

*牡丹江事件
 1941年7月、牡丹江憲兵隊は、怪電波の傍受をきっかけに抗日組織を割り出し、張文善、朱之盈、呉殿興、孫朝山、王成林、敬恩瑞の6人を逮捕・尋問した。その後、尋問の過程で朱之盈の妻・敬蘭芝と張文善の妻・龍桂潔も逮捕・拷問を受けるが釈放された。

 最初に逮捕された6人はすべて殺害、または行方不明だが、そのうち数名については憲兵隊資料やハバロフクス裁判尋問記録により、「特移扱い」で731部隊に送すれたことが確認されている。

 

 

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