昨日は中国では「七・七事変」(盧溝橋事件)と共に「国辱の日」である「九・一八事変」(柳条湖事件)から82年となりました。
管理人も共著者となっている「フィールドワーク靖国神社・遊就館」平和文化刊からこの時代に関連した部分を抜粋します。
『1915年に日本は、各国の関心がヨーロッパに集まっているすきに、中国の衷世凱(えんせいがい)政府に山東省のドイツの権益を日本に譲り渡すことなど「二十一ヵ条条約をつきつけ、その大部分を認めさせます。これにたいして中国では1919年、「二十一カ条要求」の取り消し、ドイツ権益の中国への返還などを求める五・四運動が起こりました。学生・労働者・商人などが立ちとがり、日本への大規模な抵抗運動となったのです。説明パネルはこのことについて「排日運動始まる」と書いています。これでは、「親日」でなければ「反日」という日本への姿勢だけで判断し、中国の人たちの当然の権利を認めないことになってしまいます。
また、「満州事変は昭和6年9月18日奉天郊外柳条溝(ママ)付近の「鉄道爆破事件」をきっかけに、関東軍は満州全域の軍事占領を図った事変・・・‥、日本は、日露の戦勝で満州に権益を有していたが、『倒満興漠』を旗印に新国家中華民国を建国した熱気は、既存の条約を無視した過激な国権回復運動となって満州に波及した。この反日行動を武力で制圧した関東軍の行動は、国民に支持されたが、列国はこれに強く反発し、日本は国際連盟から脱退して、国際的孤立を深めるに至った」と説明しています。
満州事変は中国東北部を支配するために関東軍みずからが計画・実行した侵略でした。そのきっかけとなった1931年9月18日の「鉄道爆破事件」も関東軍が行った謀略だったのです。当時、軍部はこの事件を「柳条溝事件」とよびました。しかし、実際の地名は「柳条湖」です。いまではどんな教科書も使っていない用語にこだわっているのは不思議です。【注】(現在は溝は湖となっている)
軍部は、11月にチチハルを、翌32年1月には満州全土を占領しました。そして同年3月、清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ)を引き出して「満州国」を建国させます。この動きにたいして中国は国際連盟に提訴し、反満抗日運動が高揚します。
このことについて説明パネルは「既存の条約を無視した過激な運動」としています。しかし、日本が「満州国」を承認した翌日に平頂事件を起こし、3000人もの中国民衆を虐殺したことは書いていません。こうした事実を認めるときに、なぜ国際社会から孤立したのかがわかるのはないでしょうか。
一方、日本国内では、日本が柳条湖事件を引き起こしたころまでは、反戦運動は活発でした。国際反帝同盟の日本支部がつくられ、朝鮮や中国の民衆との連帯を主張し、各地で戦争反対、日本の中国侵略反対の運動ががりました。反戦運動の広がりに危機感をもった政府や特高警察は治安維持法の発動を強め、小林多喜二や伊藤千代子などのように、戦争に反対するものを投獄、虐殺するなど、弾圧を強めていきました。
しかし、投獄されても戟争に反対した社会主義者や宗教者のほか、中国大陸で反戦活動をした長谷川テルや鹿地亘、軍隊や軍需工場のなかに組織をつくって活動した人たちもいました。』引用ここまで。
遊就館の展示パネルに「満州事変の後に清朝の宣統帝を元首とする満州国が建設されたが現在は中国が支配し、東北部と称している」という説明文があります。これは「満州建国をした当時の日本は正しかった」と言いたい靖國派の考えで、中国への内政干渉にもなる不当な展示であり、今後も厳しい批判を強めていくことが必要と思います。