友人の川口重雄さんからのメールを転載します。【友人から届いた情報5点】は「5.【箱根駅伝100回の歴史】「戦争で死ぬ前に箱根を走りたい」──日本が劣勢にあった1943年、靖国神社から走り出した学生たちの思い(NEWSポストセブン)231210」のみにしました。
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各位 12月15日〔本日第1信〕
お早うございます。
かつて森喜朗内閣の内閣支持率が「*」だったことがあります。
いよいよ岸田内閣も。
岸田政権の退陣を求める国会前緊急行動@WeWantFuture
【緊急行動?】もういい加減、この自民党政治を終わりにしましょう。12月15日、岸田政権の退陣を求める国会前緊急行動を行います。集まれ!!#岸田政権の退陣を求めます
12月15日(金)17:30-20:00
国会議事堂前※場所は国会前です。※18:30-19:00は@FoEJapanのアクションになりますTranslate post市民連合
【友人から届いた情報5点】
1.小村滋さんから『アジぶら通信』第2期13号(2023年12月14日発行) (添付ファイルをご覧ください。)
2.早稲田奉仕園トークイベント 2023年12月16日(土)
3.「古代日本の王宮の原型?韓国の扶余郡で百済王宮の朝堂と推定される遺跡が出土」『ハンギョレ』2023年12月4日号
4.「2024年箱根駅伝は「第100回」だが「100周年」ではない 背景にあった「戦争」と「靖国神社から往復した1943年大会」」(NEWSポストセブン)231210
5.【箱根駅伝100回の歴史】「戦争で死ぬ前に箱根を走りたい」──日本が劣勢にあった
1943年、靖国神社から走り出した学生たちの思い(NEWSポストセブン)231210
それでは。川口重雄拝
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2024年箱根駅伝は「第100回」だが「100周年」ではない 背景にあった「戦争」と「靖国神社から往復した1943年大会」(NEWSポストセブン)231210https://www.news-postseven.com/archives/20231210_1926081.html?DETAIL&utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=related_link
毎年1月2日と3日に開催される箱根駅伝。2024年は100回大会を迎える記念すべき年であり、予選会の全国化や本戦出場枠の増加をはじめ、記念大会として例年以上の盛り上がりが期待されている。しかし、2024年は実は箱根駅伝の100周年ではない。
駅伝をテーマにした作品が話題となり、戦時下の箱根駅伝を舞台にした近著『タスキ彼方』がある小説家の額賀澪氏が、その背景をリポートする。【前後編の前編】
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箱根駅伝(正式名称:東京箱根間往復大学駅伝競走)が始まったのは1920年(大正9年)のことだ。100回大会には23校が出場するが、第1回大会出場校は東京高等師範学校(現在の筑波大学)、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学の4校のみだった。1つの大学から長距離を走れる選手を10名起用するのは、とても難しいことだったようだ。
創立当初から東京箱根間を往復する駅伝大会であったが、現在の開催日程と異なり、第1回大会は2月14日と15日に行われた。1月に開催されるようになったのは、翌年の第2回大会からだ。
1920年にスタートした箱根駅伝の創設100周年は2020年。しかし100回大会は2024年で
ある。この4年のズレには、1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争、そして1941年(昭和16年)から1945年(昭和20年)まで行われた太平洋戦争が深く関係している。
戦時中、多くのスポーツ行事が中止に追い込まれた。箱根駅伝に限らず、例えば夏の甲子園(当時は「全国中等学校野球大会」という名前だった)も5年間におよぶ大会中止期間が存在する。
しかし箱根駅伝の年表を振り返ってみると、この大会中止期間がとても奇妙な形をしている。
それを顕著に表すものが、箱根駅伝のスタートとフィニッシュの地、東京・大手町にある。
戦時中、唐突に復活した箱根駅伝
東京・大手町の読売新聞東京本社。1月2日に大歓声によって1区の選手達が送り出され、3日には10区の選手が拍手で迎えられる場所だ。ここには「箱根駅伝 絆の像」というブロンズ像が建っている。
箱根駅伝ファンや市民ランナー達の記念撮影スポットにもなっているこの場所には、歴代の箱根駅伝優勝校の名を記したモニュメントも設置されている。第1回優勝校の東京高等師範学校に始まり、第99回優勝校の駒澤大学まで、箱根駅伝の歴史が刻まれているのだ。太平洋戦争前後の優勝校の名もここにはある。
戦時中の1943年に靖国神社スタート・ゴールで箱根駅伝が敢行された背景とは戦時中の1943年(昭和18年)にも箱根駅伝が敢行された背景とは 日中戦争の最中だった1940年(昭和15年)に開催された第21回大会の優勝校は日本大学だ。このあと、箱根駅伝は中止に追い込まれる。1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まっていることを考えると、当然のことのように思える。
ところが第22回大会が1943年(昭和18年)に開催され、日本大学が優勝している。真珠湾攻撃からおよそ1年。当初は日本軍優勢かと思われた戦局は様変わりし、多くの戦場で劣勢を強いられるようになった頃、唐突に箱根駅伝が復活しているのだ。
この大会が開催された10ヶ月後には、学徒出陣によって大勢の大学生が戦地へ旅立っている。
このような状況下で、どうして箱根駅伝は開催されたのか? しかも、この第22回大会の正式名称は「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」なのだ。
現在のような、大手町をスタートして箱根・芦ノ湖を目指し、再び大手町に帰ってくるルートではない。靖国神社をスタートし、芦ノ湖の畔に建つ箱根神社を目指し、再び靖国神社へ帰ってくる──そんなコースを、選手達は走った。学徒出陣を目前に、母校のタスキを靖国神社へと運んだ。
(後編に続く)
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【箱根駅伝100回の歴史】「戦争で死ぬ前に箱根を走りたい」──日本が劣勢にあった1943年、靖国神社から走り出した学生たちの思い(NEWSポストセブン)231210https://news.yahoo.co.jp/articles/760d8a739f3fec62aae87ad8fb2a2b914b093a8d1943年の大会、10区で日大がラストスパート。ゴールは靖国神社だった毎年1月2日と3日に開催される箱根駅伝。2024年は100回大会を迎える記念すべき年であり、予選会の全国化や本戦出場枠の増加をはじめ、記念大会として例年以上の盛り上がりが期待されている。しかし、2024年は実は箱根駅伝の100周年ではない。戦時中に中止されていた期間があったからだが、1942年6月のミッドウェー海戦を機に日本が劣勢を強いられる中、翌1943年に「第22回大会」が唐突に復活していた。そこで何があったのか。
【写真】日大で6区を担当した選手が書いた日記。「明日は本当に体が挫けて粉になる気で下るぞ。」
駅伝をテーマにした作品が話題となり、戦時下の箱根駅伝を舞台にした近著『タスキ彼方』がある小説家の額賀澪氏がリポートする。【前後編の後編。前編から続く】
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数多くのスポーツ行事が中止に追い込まれていた戦時下の1943年(昭和18年)に開催された箱根駅伝第22回大会の正式名称は、「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」。
いかめしいこの名前から、「当時の政府が国民の戦意高揚のために箱根駅伝を利用したのではないか?」と考えた人もいるかもしれない。スタート・フィニッシュ地点が靖国神社であること、大会名に「鍛錬」という言葉が使われていることからも、この大会がそれまでの箱根駅伝と全く違う大会であったことは間違いない。
この「靖国神社をスタートし、靖国神社にゴールする箱根駅伝」について詳しく知ることのできるノンフィクションが2冊ある。『昭和十八年 幻の箱根駅伝 ゴールは靖国、そして戦地へ』(澤宮優/集英社)と『昭和十八年の冬 最後の箱根駅伝 戦時下でつながれたタスキ』(早坂隆/中央公論新社)である。令和を生きる私達にとって当たり前のものとなった「箱根駅伝のあるお正月」が、戦時下の学生達にとってどれほど大切なものであったかを教えてくれる2冊だ。
この2冊を参考資料に、戦争に奔走された箱根駅伝の歴史を紐解きたい。
箱根駅伝ができないなら……学生達は青梅へ走った 靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会について語るには、少し時間を遡る必要がある。
日中戦争の最中であった1940年(昭和15年)の1月、第21回箱根駅伝が開催された。その後、箱根駅伝は中止に追い込まれる。箱根駅伝のコースである第一京浜国道が軍需物資の輸送に使われていたため使用許可が下りなかったこと、大会の後援であった報知新聞社の経営難が原因とされる。
箱根駅伝を失った学生達は、それでもなんとか駅伝をやろうと代替大会の開催を決める。その名も「青梅駅伝」である。明治神宮外苑プール前をスタートし、現在の東京都青梅市の熊野神社で折り返し、再び外苑プール前に戻ってくる駅伝だ。
第1回青梅駅伝は日本大学が優勝している。中止に追い込まれる直前の第21回大会も日大が優勝しており、第16回大会から第19回大会までは4連覇と、驚異的な強さを見せていた。
1941年(昭和16年)1月に第1回青梅駅伝を開催した学生達だが、同じ年の11月に第2回青梅駅伝を行う。
順当に行けば翌年1月の開催のはずなのに、何故11月に開催したのか? これにもまた、戦争が影響している。この年の10月、学徒動員のための繰り上げ卒業が発表される。大学の修業年限が3ヶ月短縮され、1942年(昭和17年)の3月卒業予定の学生が、前年の1941年(昭和16年)12月に卒業させられることになった。青梅駅伝を1月に開催していては、12月卒業の学生が走れない。だから、11月に第2回青梅駅伝を開催する必要があったのだ。
第2回青梅駅伝から8日後の1941年12月8日、日本は真珠湾攻撃を行い、太平洋戦争が始まる。
軍部に箱根駅伝開催の許可をもらうための工夫
太平洋戦争勃発に伴い、スポーツ行事は官製大会しか認められなくなる。大学の陸上競技部も、陸上戦技部と名前を変え、手榴弾投げと重量物運搬競走が〈戦技〉として導入された。この流れの中で、箱根駅伝の代替大会であった青梅駅伝までもが中止となってしまう。
しかし、学生達はそれでも駅伝をやろうと画策していた。戦争の激化に伴い、世間では「学生ばかりが徴兵を猶予されるのは不公平だ」「学生も兵隊に行くべきだ」という声が大きくなっており、多くの学生が「自分も戦争へ行かねばならない」と思い始めていたのだ。
だからこそ、出征前に駅伝を走りたい。箱根駅伝を走りたい。学生達はそう願い、箱根駅伝開催のために奔走した。
軍部に箱根駅伝開催の許可をもらうために学生達が考えたのが、「靖国神社をスタートし、靖国神社にゴールする箱根駅伝」だった。大会名を「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」としたことからも、いずれ出征する学生の鍛錬、そして戦勝祈願を謳うことで、軍部を納得させようとしたことがわかる。
学生達の努力の甲斐あって、1943年(昭和18年)1月5日と6日に、第22回箱根駅伝──靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会は開催される。
日本大学で6区の山下りを担当した成田静司氏がこの大会のことを日記に書き残している。出走前日の日記には「明日は本当に体が挫けて粉になる気で下るぞ。山手が待ってるぞ山手が」と、7区を走る山手という選手に意地でもタスキを繋ごうと意気込みを語っていた。
ちなみに、現在では優勝争いの常連となった青山学院大学にとって、この大会が箱根駅伝初出場である。選手不足で出場を断念する大学が多くあった中、なんとか10人の選手を集めて箱根路に挑んだ彼らの胸中は、一体どのようなものだったのだろう。
箱根路を走った学生達の多くはその後、学徒出陣によって戦地へ旅立つ。戦況の悪化により激戦地に送られた者や、特攻隊に配属された者も少なくなかったといわれる。
いずれ戦争で命を落とすことを覚悟して箱根駅伝を開催し、箱根路を駆け抜けた学生達。彼らはどんな思いでタスキを繋ぎ、靖国神社を目指したのか。どんな思いで出征し、命を落としたのか。生き残った者達がどんな思いで戦後日本に箱根駅伝を復活させたのか。
彼らの願いは脈々と受け継がれ、昭和、平成、令和、そして第100回箱根駅伝へと繋がっていく。
箱根駅伝に恋い焦がれた戦時下の学生達に思いを馳せながら、100回目の号砲を心待ちにしたい。
(了)
◆額賀澪(ぬかが・みお)/1990年、茨城県生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業後、広告代理店に勤務。2015年に『屋上のウインドノーツ』(「ウインドノーツ」を改題)で第22回松本清張賞を、『ヒトリコ』で第16回小学館文庫小説賞を受賞。2016年に駅伝を描いた小説『タスキメシ』が第62回青少年読書感想文全国コンクール高等学校部門課題図書に選出、ベストセラーに。『タスキメシ』シリーズは他に、箱根駅伝を描いた『タスキメシ箱根』その後の元ランナーを描く『タスキメシ五輪』がある。その他の著書に『風に恋う』『ウズタマ』『転職の魔王様』『青春をクビになって』など多数。近著に『タスキ彼方』がある。
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読売新聞「箱根駅伝」チラシより
(了)