久しぶりに「50年目の伝言」をアップします。
綿貫洋一さんは、今年6月に90歳6ヶ月で逝去されました。1934年(昭和9)生れなので、「12月8日 開戦の日」や「学童疎開」の事を鮮明に記述されています。
在りし日の綿貫洋一さん(真ん中です)
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戦時下に過ごした少年期
綿 貫 洋 一
源氏前剛の頃
1940年、私が源氏前尋常小学校一年の時、紀元2600年の年の騒ぎがあり、1年生になった41年4月だったか、尋常小学校は国民学校と改められ、そして開戦の12月8日へと時代が進みました。
その日の朝、いつにない雰囲気に目を覚ますと、父が神棚に燈明をあげており、ラジオは勇ましい音楽に合わせて開戦を報道していました。何か身のひきしまる思いでした。
学校では朝礼で校長先生が、日本は米英両国と支那を相手に戦うことになった、と話し全校生徒を順次号令台に立たせ“日本の敵は米英支那】と言わせたのです。校長先生は、開戦にあたって、戦意昂揚か、少なくとも緊張感を持たせようどしたのだど思います。
ところが戦況は、緒戦の勢いもどこへやら、隣組の組織作りや防空壕の準備が進み始めたのように思います。
戦時下の様相は物資、とくに学用品、遊ぴ道具に早くから影響が出ました。文鎮など鉄製品はもとより、セルロイドの筆入れや下敷きが武器弾薬を作ると称して供出させられましたしゴムはいつの間にか文房具店から姿を消し、うどん粉で作られたゴムまりは、水にぬれると溶けてぬるぬるしてきました。男の子に人気のあったベイゴマは、鉄製からニュームになり、瀬戸になり、最後は土で作られていました.行列で買った食糧が配給制に、衣料品が切符制となり、「欲しがりません勝つまでは」の標語が広められ、ただ我慢を強いられた時代でした。
教科書には「肉弾三勇士」とか「サクサクと玉砂利を踏んで伊勢神宮の参拝… 」といった内容が記述され、正月の書き初めも「大御代の春」「大内山旗の波」など、学校教育全体が愛国精神や神国思想の植え付けをねらって行われていました.そればかりか「弾丸切手」という、軍事費調達のための国債を、先生や子供を通じて国民にたぴたぴ押しつけていました。
5年生のときでした。戦況は一層厳しくなって「本土決戦」の言葉がぼつぽつ人々の口にのぼりだしていました。私は、静岡県富士郡北山村(現富士宮市)にある日蓮宗の本門寺に集団疎開することになりました。田舎に縁故のない3年生以上の児童が対象でした。
疎開学園の日々
私たちが出発したのは確か8月26、7日頃でした。源氏前国民学校から東急池上線荏原中延駅までの約1キロが、家族の見送りが許された範囲でした。駅のホームでは出征兵士のように「ばんざい」「ばんざい」の声.私は目がかすんで母がどこだか分かりませんでした。
品川で乗り込んだ列車を富士駅で身延線に乗り換え富士宮駅で下車、出迎えてくれた戦車学校のトラックに分乗して約8キロの道程を走りました。いま思うと、子どもたちは列車の中でも静かにしていたような気がしますし、何度も乗り換えて、もう東京へは帰れない、途方もなく遠くに来た、という印象でした。ただご近所にお住まいの丸さんという女の先生がご一緒していて、みんなにしきりに声をかけ、気をひきたたせようとしてくれていました。
本門寺は、七本杉と呼ばれる千年以上の太い大きな杉を前に、周りを杉林と墓地に囲まれていました。
客殿と5つほどの坊に分かれての生活が始まりました。私は最初の2ヶ月ほど客殿にいたあと、西之坊に移りました。
食事はみんな一緒に方丈の板の問で正座してするのですが、最初に合掌して「はしどらば 天地御代の 御恵み 父母や師長の 恩を味わえ」の御製をうたい、あとを続けて「お父さん お母さん いただきます」ど言って箸をとるのが常でした。
最初良かった食事も、日が経つにつれ粗末になり、木製の弁当箱に盛る御飯も目に見えて少なくなり、子どもたちの間でささやかれていた不平も、先生や寮母先生に聞こえよがしに「ああ腹がへった」と言うようになりました。
腕力のある6年生による御飯の取り上げが始まりました。食事中、目立たないように弁当箱を回すのです。それが回ってくれば自分の御飯の中から少し移し次に送ります。もし従わなければいじめに遭うので、みんな言われるままになっていました。
強い子の支配は客殿にも坊にもあり全体を取り仕切っていました。杉の落葉で焚火をしても、拾い集めるのは小さい弱い子で、焚火の風上は強い子の指定席でした。お寺ですから夜中に外のトイレに行くのは怖いのですが、強い子はみんなを起こして一緒に行くのですが、小さい子はよく「おもらし」をしていました。
お腹がふくれてしまい東京に帰された子がいました。どんぐりを食べたらしい、という噂に、東京に帰れるのを羨んで真似をした子ども達が、夜中に下痢をして大変な騒ぎになったことがありました。
いつも空腹でしたから、口に入るものは何でも食べていました。山栗や、畠から無断で掘ったさつま芋を生のまま食べていました。そのため虫さされの跡などが化膿してなかなか治りませんでした。東京から持ってきた整腸剤の「わかもと」をおやつのかわりにぼりぼり食べていました。
疎開学園では、昼食は代用食のさつま芋でした。
食事で私が特につらかったのは大根めしで、量を増やすためにまぜた大根は大きく切られていて、御飯粒がそのまわりにくっついている程度の御飯でした。それが毎日朝晩続きました。
においが鼻についてお腹が空いていてものどを通らず、涙の出る思いでした。そのままおやつのさつま芋と交換したことも度々でした。そのせいか50年後の今もって大根は苦手です。
空腹を抱えた子ども達は、近所の農家に食べ物をねだりに行っていました。
「こんにちわは 水を飲ませてください」と農家をたずねるのです。
北山村は富士山麓の村で、水道がなく、溶岩台地ですから井戸は掘れません。富士から湧き出る冷たいきれいな水が小川となって村中到る所を流れていました。どうしても腹這いになれば飲めるのに農家をたずねるのは目的があるからです。農家もそれを承知していて、おにぎりを作ってくれたり、塩あんのお鰻頭を食べさせてくれたりしました。私は丼によそった「ほうとう」を夢中になって食べたのを覚えています。子ども達の間ではそれを「がっつきに行く」と言っていました。先生方は分かっていても気付かないぶりをしていました。
集団疎開の子ども達を悩ました虱の存在も忘れられません。いつどこでうつされたのか全員にたかっていました。衣類の縫い目にびっしりどついていて、中には血を吸って丸くころころしているのもいました。寝床の中で身体が暖まるどゴソゴソ動き出すのです。1人が起きて取り始める次々と起き出したものでした。
子ども達にとって、冬の北山村はつらい日々でした。坊の板張りの本堂には小さな火鉢が一つあるだけで、「富士おろし」の風は冷たく肌を突き刺します。客殿にあるお風呂に週に何回か入リにいきますが、100メートル足らずの坊に帰り着くまでに手拭いがコチコチに凍り、身体もすっかり冷えていまた。
洗濯は、大きいものは寮母先生が洗ってくれましたが、下着などは、縁が凍った小川で自分で洗うのです。手足にひぴ、あかぎれ、しもやけのできていない子はいなかったはずです。
集団疎開で忘れられない思い出があります。アコーディオンどハーモニカが好きだった私は、疎開にはハーモニカだけ持って行きました。あるとき塚越という先生が私の知らない曲を2、3度吹いてくれました。曲名は聞きそこなっていました。先生はしばらくして出征し、忘れるどもなく忘れていましたが、敗戦後、「ヨーロッパ1900何年」とかいう映画を観ていてはっとしました。あの時、先生が吹いてくれた曲は紛れもなく「ラ・マルセーユ」だったのです。
45年の初め、空襲が激しくなった東京から、1才半の弟をつれて母が北山村に疎開してきました。度々面会に来ていた父がお坊さんに家を探してもらっていたのです。
私は6年生になるとき、疎開学園から母の家に移り、地元の北山村国民学校に転校し山した。
疎開学園では、子どもは誰もが空腹を抱え、虱、いじめ、寒さ、そして親許を離れた淋しさに、必死に耐えていました.御飯を取り上げ、いじめをする子にしても、満たされない心をどうすることもできず友達にぷつけていたのだど思います。
1年に満たない問でしたが、私には長く、笑いを忘れた期問でした。
北山村国民学校で
学校では教科に勤労奉仕があって、出征兵士のいる農家で農作業の手伝いをしていました。
そんな時、学校と畠との往復にいつもきまって歌うのは、
「勝ち抜く 僕等小国民 天皇陛下の御為に 死ねど教えた父母の・・・」
戦時中どはいえすごい詞です。
当時は情報が乏しかったせいかデマ宜伝が横行していました。「B29の乗組員が蚊帳のような生地の飛行服を着ている」といったたぐあですが、毎日飛来するB29の大編隊から、アメリ力が欠乏しているとは考えられなかったし、私が森の中で見つけた米軍が落とした宜伝ビラの量と質からも、富める国を見せつけられた思いでした。
荏原の家が5月24日に焼け、6月末には沖縄が米軍の手に陥ちたことを知りましたが、それでもまだ勝利を信じていました。
玉音放送を聞いた日の夜、縁側の雨戸を開け放ち、電燈の煌々とした庭で近所の子ども達が身体をぷつけ合い、ふざけ合ったのですが、騙されたという気持ちから、戦争が終わった喜びに変わっていました。
翌日、夏休み中のはずですが、なぜか登校しました。校長先生は全校生に「日本の敗戦は銃後の我々の貴任だから天皇陛下にお詫びする」と東京の方角に向かい、土下座で最敬礼をさせました。私はこれが不満でなりませんでした。
北山村から見る富士山は、左右のパランスがとれ、右の稜線にある宝永山がアクセントになり美しい姿をしています。私は村の古老から「季節、時刻によって七色に変わる」と聞いたことがありましたが、朝日に輝く冬の富士には感動していました。
秀峰富士を軍用機の侵入目標にするのではなく、平和のシンボルとして、いつまでも豊かな自然を誇る山としておきたいど願うのです。
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(了)