5年ぶりの映画監督宮崎駿さんの長編アニメーション映画「風立ちぬ」が公開中です。『主人公は、第2次世界大戦中の日本の戦闘機・ゼロ戦を設計した堀越二郎です。同時代の作家・堀辰雄の人生も加味。大正から昭和へ、日本が戦争に突入していく時代を描いた作品』として《しんぶん赤旗日曜版2013.8.11号》に紹介されています。
宮崎監督が「平和主義者」であるならば、何故に海軍零式艦上戦闘機をモチーフにしなければならないのかまったく理解できません。
靖国神社内遊就館入り口大ホールに復元された「三菱零式艦上戦闘機五二型」が展示されていますが、その説明板には次のような説明文があります。
『昭和15年すなわち紀元2600年に制式採用された「三菱零式艦上戦闘機一一型」は「ゼロ戦」の愛称でも親しまれている。初陣は昭和15年9月。中国重慶においてソ連製中国軍機との空中戦で敵の大半を撃墜。味方に損害なしという空前の戦果をあげ、その格闘性能と航続力で世界最強を誇った。』
しかし、太平洋戦争開戦から僅か半年後の1942年6月4日。多くの空母や艦上戦闘機と搭乗員を失った「ミッドウエー海戦」はターニングポイント(遊就館展示室大東亜戦争2には「攻防の転換点」とのパネルが)ととなり、敗戦への道と続きます。一方アメリカ軍は「ゼロ戦」の性能を上回る「F6Fヘルキャット」の艦上戦闘機や「P51ムスタング」そして戦略爆撃機「B29」を開発製造してきました。
遊就館展示室「大東亜戦争1」に“鉄"“機械"“石油"の輸入量のパネルがありますが、管理人は「戦争をするには鉄、工作機械、石油が必要だと描かれていますが、このパネルを裏側から見て下さい。このような国力の日本が何故無謀な戦争に突入したのでしょうか。考えて下さい。」と説明をします。
その際、妻が定年まで勤めていた「富士重工業」の社員の話をします。
飛行機の製造会社だった中島飛行機(社長中島知久平)は、戦後財閥解体で「富士重工業」と「プリンス自動車」となります。ですから富士重工業には中島飛行機時代の社員が多く勤めていました。当時、飛行機製造に係わっていた社員は、真珠湾攻撃が始まったと聞いたとき「この戦争は日本が負けると直感した。中島にはアメリカからカーチスライト社の社員が指導に来ていた。また中島の社員もカーチス社の工場を見学していた。昭和15年日米関係が悪化したのでカーチス社の社員は帰国した。彼らはアメリカに比べ劣っている日本の飛行機製造技術や資材について政府に報告しているだろう。それにアメリカのコンベヤー式製造工程などを見ていたので尚更だった。」と妻に語ったそうです。技術者だからこそ冷静に戦争を見つめたのだと思います。
1944(昭和19)年10月。海軍大西滝治郎中将が捷号作戦(レイテ沖作戦)において航空特攻が出撃しました。陸軍も同時期二個隊を編成して比島へ進出。44年11月に出撃しました。(日本陸海軍事典148頁)航空特攻、水上特攻、水中特攻合わせての数字だと思いますが、「特攻」での戦死者は約4500人だったとNHKBS特集「零戦」で報じていました。
遊就館展示室「靖国の神々1~3」には約1万枚近くに上る戦死者遺影が飾られています。(A級戦犯の遺影は3人のみ)
管理人の知人は「父は私が母のお腹にいたときに、南方の海で戦死したので父の顔は知らない。お墓には戦死公報の紙切れしか納まっていないので、靖国神社に来ると戦友たちと一緒にいる父に会える。」と言われ、お父さんの遺影を奉納しました。静かな佇まいの中で参拝することがご遺族の本当のお気持ちであり、総理大臣の参拝や軍服を着飾り進軍ラッパが鳴り響く喧噪の靖国神社を望んでいないと、管理人は考えています。
「特攻」は志願制でしたが、志願をしないという選択肢は“大日本帝国軍人"にはありませんでした。管理人のサイト「長谷川オフィスニュース」の「68年目の伝言」に「特攻志願者は一歩前へ!」という証言がありまのでご覧下さい。
宮崎監督は「遺言」としてこの作品をつくったと語られていたようですが、「戦争と平和」について真正面から向き合った作品をもう一つ制作して貰いたいと願っています。
それでも観たくはありませんね。
ジプリ作品の「紅の豚」は大好きです。バルカン半島の航空戦を描いていますが戦死者は一人も出てきません。
これはしんぶん赤旗8月15日付「主張」の記述です。
捻じ曲げるからおかしくなる。
風立ちぬは戦争賛美でも無く、あの時代に生きた人達の物語。
私はどちらかと言うと、フィクションだと思いましたが、
見て理解もせず戦争の悲惨さのみに繋げて
目を瞑ってしまう事のほうが戦争を美化してしまう気がします。