鈴木共明氏は、戸口好太郎氏と小林利男氏と同じ関東軍第ー方面軍第ニ十軍直轄第十六野戦兵器廠に勤務していました。お二人の紹介で山森良一弁護士に同行して宮城県栗駒の自宅を訪問しました。鈴木共明氏からお預かりした戦友会有志で出版した「追想」の中で「ト号演習」を知り、関東軍関連の文献史料から「ト号作戦」があったことが判りました。
ソ満国境では、ソ連に対して「静謐」をしながら、いざ、ソ連が参戦した場合は、満州の三分の二を放棄し、「ト号作戦」による「新京・大連・図們」に集結して、朝鮮半島北部の第34軍を隷下にし、朝鮮半島と本土を死守すべきであるとの大本営「本土決戦」命令でありました。
ソ連参戦は、満蒙開拓団の凄惨な悲劇を生み、関東軍将兵・軍属はシベリア抑留となりました。
「ト号演習」によって、第十六野戦兵器廠は、敦化附近の大橋に野戦兵器廠を開設し、全満州から満州鉄道で送られてきた砲弾を沙河沿飛行場に集積したのです。
このイラストは、関東軍第16野戦兵器廠の元隊員有志が私費出版した部隊史「追想」にある地図を小林利男氏が補足したものです。
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甲第329号証鈴木共明氏
陳 述 書
鈴木共明
はじめに
私の生年月日は大正13年3月20日です。生まれは、宮城県で、戸籍は宮城県登米郡上沼村大字桜場大柳118です。
満州へ
昭和18年10月、私は陸軍兵器学校を卒業して、関東軍第ー方面軍第ニ十軍直轄第十六野戦兵器廠附として赴任しました。本廠は東満総省鶏寧にありました。本廠には4、5日滞在した様な気がします。私より二期先輩の火工の寺島、電工の高橋、鍛工の野上、技工の小林の各軍曹がおられ、いろいろと部隊の内情など教へて頂きました。其の後、重田正吉君、佐藤郁雄君、それと私の三人が河東支廠付を発令されて河東に着いたのは昭和18年の11月15日前後だったと思います。
若山隊でのこと
河東に着いて私は業務隊付、修理部工場班勤務を命じられました。
私は内務的には業務隊(若山隊)の第二内務班付でした。隊長はその後いつもお世話になる若山隊長で、班長は、屋形軍曹でした。尾形軍曹の後任は尾高軍曹で、その後、私が班長を命じられました。その後、緩陽での移動修理等いろいろなことがありました。昭和20年4月になって部隊は牡丹江省愛河に移動集結することになりました。私は在庫兵器類を17 野兵廠(2634部隊)への引渡要員として残営し、愛河移駐は5月15日になりました。16野営廠は第一方面軍の直轄となり、敦化附近の大橋に野戦兵器廠を開設し、国境地帯から後送されてくる兵器弾薬を収容格納する任務を与えられました。
愛河移駐後間もなく、私は扇桃腺炎で抜河陸軍病院に入院しました。
退院後、愛河から大橋へと移駐しました。
大橋
大橋での生活で憶い出すのは、ただ、毎日毎日の弾薬の荷下げ、集積、格納洞穴庫と道路の開設です。修理部と言っても、この建設用器材の製作修理が主体で小さな鍛工場と木工場をー緒にしたような小屋がーつあった様な気がします。貨車が入れば昼夜を問わずすぐ出動しなければなりませんでした。
河東出張のこと
昭和20 年7 月下旬、私は河東出張を命じられました。倉庫を解体して輸送するためです。なかなか思うようにはかどらず、8月9日を迎へました。その日、ソ連の飛行機が、十機位ぐるぐると上空を旋回していました。
私は第十六野兵廠の所属ですからあくまで大橋からの命令で動くしかありません。私は迷いましたが、大橋の原隊目ざして帰ることとして部下ともに牡丹江に向いました。途中、襲撃を受け、部下十数名のうち、大部分を失いました。私は残った3名で戦死者・負傷者を連れて行き、牡丹江で負傷者を入院させ、戦死者を火葬にふし、遺骨を大橋まで持ち帰りました。
肉薄攻撃班のこと
大橋に帰隊したのは8月14日でした。
8月15日、16日とどんな風に日を過したか記憶がありません。
―種蓬然とした虚無的な気持の中で過していたのではないかと思います。そうしている中に、牡丹江が突破されたとか、寧安附近に敵戦車が進出して来たとかの風聞を耳にした様な気がします。そんな状況でのある日、8月16日ではないかと思います。若山隊長に呼ばれました。私と先輩の高橋隆夫曹長のニ人だったと思います。方面軍命令に基づく部隊命令を見せられました。「各隊は下士官を長とする肉薄攻撃班を各2箇編成し、今明日中にも進出を予想される敵戦車に対し攻撃を準備すべし」と言う内容のものでした。ハッキリ申渡されなくとも、肉薄攻撃班長を命じられたものと承知しました。
攻撃の具体的方法としては、十榴(十五榴?)の砲弾を抱いて体当りすることでした。隊長から「鈴木軍曹、死んで呉れや、わしも死ぬ」といわれました。私も高橋曹長も「ハイ」と返事をしました。20年間の自分の人生もいよいよここ、2・3日で終るかと思い、幼なかった頃から現在までのことが、走馬灯のように浮んでは消へ、消へてはまた浮ぶのでした。あの晩、大橋はおぼろ月夜とでも形容する様な月明の夜でした。
翌朝、目覚めてみると同室の風見曹長の姿がみえません。
其の中、帰ってくるなり「おい、鈴木軍曹、今本部できいてきたのだが停戦になったらしいぞ」と言うのです。瞬間、私は、ノモンハンの様な停戦かと思い、それにしてもあの時の条件よりは、はるかに悪い条件での停戦だろうなと思い、同時にそれが本当なら、肉薄攻撃の必要もなくなれば俺も死なずに済むのかなと思いました。
武装解除そしてガス弾処理
終戦から武装解除、そして敦化飛行場への集結とあわただしい動きがありました。
8月18日 部隊長が隊長を集めて 詔勅を読みました。18日19日ソ連の軍使が来て、小銃・銃剣などをあつめて処理しました。
あの時期のことで忘れられないことは、昼間行動は一切停止して夜間行動での穴に埋めたガス弾処理です。
経過は以下の通りです。19日から22日頃まで中隊の命令で毒ガス弾の廃棄命令がでました。
廃棄作業は秘密で暗くなってからしました。トラックはライトを付けないで運んでいた。作業が終わると朝に幕舎にはいって寝る生活でした。一切の戦闘行動を停止するという建前ですから、隠密にやる他なかったのです。
作業手順は、具体的には、何班はどこ、何班はどこと割り当てられました。
毒ガス弾の区別は弾薬班がおこないました。私は、埋める方の担当でした。私自身も作業をしました。
毒ガス弾は木箱に入っていました。木箱を開けてだしてうめたという経験のある人もいますが、私は、木箱のまま埋めたように記憶しています
掘った穴は2メートル四方くらいの穴で、深さは2メートルだったように思います。もう昔のことなのではっきり覚えていません。
10人か15 人くらいー組になって作業をおこなったと思います。
穴は私たちのつくった作戦用道路のそばです。大橋の駅から2キ口くらい離れたところに本部があり、そこから少しはなれたところに中隊の幕舎がありました、本部と大橋の駅の間には荷卸の場所がありました。どのくらいの個数を掘ったかなどは忘れてしまいました。 伝聞ですが、埋めきれないのは川をもっていって投げ込んだと聞いています。
なぜ、穴を掘ってうめて埋めるのか、疑間に思ったのですが、ガス弾だということで、ああそうかと納得したものです。
敦化へ
大橋を離れて敦化へ向ったのは8 月23 日の薄暮時だったと思います。翌朝敦化飛行場へ集結しました。敦化飛行場では、部隊の将校団とは分離され、若山隊長ともそこでお別れでした。
沙河沿そしてシベリヤへのこと
沙河沿移動の時は、要所に待機する形でいたソ連兵に、後生大事、に持っていた毛布、防寒衣類、果ては時計まで巻き上げられて口惜しい思をしました。
東京ダモイ(帰国)と言うことで沙河沿を後に列車に乗込だのは9月末か10月初め頃だったでしよう。列車の中から大橋の旧駐屯地を遠望し吉林、そしてハルビン駅、ここで本当に東京ダモイなのか疑間が感じられてきました。ハルビンから満洲里へ、そしてチタへ、チタから更に西へ西へと列車は走り続け、東京ダモイの夢は完全に打ちくだかれました。収容所のこと
私が連れて行かれたのはタイシェット地区74 キ口地点収容所には約1年おりました。糧抹庫警備、ターチ力作業、伐採作業、ドラン力用赤松の伐採、壁塗り作業、八十二キロ地点収容所への雪中通勤作業、牧場への草刈作業、何れにしても空腹と疲労の毎日でした。病気になり、退院後、第51 収容所で働きました。昭和22年6月7日、私は東京ダモイへと出発しました。私の亡母の命日が5月7日で、丁度其の1ケ月遅れでしたからよく覚えております。
帰国してから
昭和22年6月28日、舞鶴に上陸しました。舞鶴国立病院から金沢の国立病院へ、そして仙台の国立病院へと転送になり、退院帰郷したのは8月中旬頃です。
昭和25年秋頃、当時の村長から栗駒に広い開拓地があるから入植しないか、と口説かれました。当時の私は、山の奥深いところで、静かに一人で暮したいなど夢みたいな気持の中で暮しておりましたから、現地視察もせず入植しました。入植してみると道もなく、ただ全面うっそうたるブナの原始林地帯でした。
昭和27年から私が組合長になり、道路の建設、学校、住宅の建設、電気の導入、営農計画の策定等、解決、推進すべき問題が山積していた時代でした。頼りにされ、懇願されれば引受けざるを得ない心境でした。勿論、若気の至りで「乃公出でずんば」の気概が心のー隅になかったとは言へません。夢中で仕事をして、気がついてみれば、還暦になり、喜寿も超えてしまいました。
現在、心残りなのは、敦化に残してきた部下の遺骨のことです。
遺骨収集に行きたいと思い厚生省、外務省に電話をしましたが中国ではできないと言われました。しかし、諦めきれませんし、心残りです。
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鈴木共明ご夫妻を敦化市大橋の遺棄毒ガス現場や鏡泊湖などへ同行しましたので、後日同行記をエントリーします。
「季刊・戦争責任研究」65号「毒ガス裁判と毒ガス被害者を支える人々の系譜」【再掲】秀逸な映像作品。NHK・ETV特集「隠された毒ガス兵器」
中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・東京高裁陳述書」甲第121号証鈴木智博氏
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中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第306号証吉田義雄氏
中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第252号証戸口好太郎氏
中国大陸に毒ガス弾を捨てた兵士の「東京地裁・高裁陳述書」甲第251号証小林利男氏
(続く)