檜山平和ミュジアム主宰・靖国神社平和ガイドの檜山紀雄さんが、昨日新日本婦人の会和光支部の方々を靖国神社・遊就館のガイドをしました。その時の様子を電話してくれました。
①南門の公衆トイレが放火されて以降、南門は閉鎖されてきましたが、通行が出来るようになったそうです。
②遊就館大展示室に展示されている戦艦武蔵等の主砲弾横に、元航空自衛隊幕僚長田母神俊雄が寄贈した戦艦大和の模型がありますが、公選法違反で逮捕されて「容疑者」となったのにそのまま展示されているそうです。
③靖国神社オフィシャルガイドブック『ようこそ靖国神社へ』に「清朝の狛犬」と説明文があります。遊就館売店で見たところ、この部分が削除されているそうです。
靖国神社に電話をして、担当の神職に尋ねましたら、全体のページ数を減らすので項目を取捨選択して改訂版を出版しましたと言われました。
管理人が故松田修次さんと編纂した『ガイドブック葵から菊へ 20世紀の戦争遺跡から21世紀の平和を学ぶ』2002年11月23日第四刷発行(絶版)「前編 軍都“新宿”の変遷」「後編 靖国神社と九段下の戦跡」があります。
「後編」の60~61頁を抜粋します。
・・・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・
狛犬
高麗犬の意。神社の社頭や社殿の前に据え置かれる一対の獅子に似た獣の像。
あ・うん【阿・吽】密教では、「阿」を万物の根源、「吽」を一切が帰着する知徳とする。=広辞苑
清朝の狛犬(靖国神社オフィシャルガイドブック『ようこそ靖国神社へ』より)傍線は編者
狛犬に続いて、すぐにまた狛犬が登場する。こちらは境内最古の狛犬である。日清戦争の後、朝鮮(海城)の三覚寺にあったものを、山県有朋らが譲り受け、明治天皇に献上し、天覧の後、靖国神社に置かれた。
【編者注】海城は中国の遼東半島にある。【写真・雄と雌】
田山花袋は清国の歯獲(ろかく)品と証言
「譲り受け」と靖国神社はオフィシャルガイドブック(33頁)で説明しているが、そのガイドブック(102頁)に「文学に見る靖国神社」がある。その中で「田山花袋の父も靖国に眠る」と田山花袋の作品「東京の三〇年」の文章を紹介しているので注目したい。
田山花袋は館林市に生まれたが、一五歳から三五歳まで市谷富久町、納戸町、市谷甲良町、内藤町、喜久井町、原町、若松町、市谷薬王寺町、北山伏町と二〇年間新宿区内に住んでいた。
一九一七年(大6)に博文館から発刊された『東京の三〇年』の中の「明治二〇年頃」に・・
『牛込の監獄署の裏から、士官学校の前を通って、市ヶ谷見附へ出て、九段の招魂社の申を抜けて、神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った。(略) 大村の銅像、其頃はまだあの支那から歯獲した雄雌の獅子などはなかった。丁度招魂社の前のあの大きな鉄製の華表(とりい)が立つ時分で、それが馬鹿げて大きく社の前に転がされてあるのを見たそしてそれが始めて立てられた時には、私は弟と一緒に往きに帰りに、頬をそれに当て見た夏のことなのでその鐵の冷たいのが気持ちが良かった』
【編者注】華表(とりい)は鳥居のこと。この鳥居は現在の第二鳥居のことである。
同じく「九段の公園」に・・
『九段の招魂社は、私に取って忘れられない印象の多いところである。(略) それに戦死した父がそこに祭祀されてあるということが大きくなってからも私を其処に引き寄せた。(略)大村の銅像が立った時も私は知っている。その周囲に柵の取廻された時も知っている。日清戦役に海城(ハイチョン)で歯獲した雌雄の獅子の奉納された時も知っている。吉田晩稼の「靖国神社」といふ、大きな石柱の立った時も知っている。』
田山花袋は一九〇四年(明治37)日露戦争勃発により博文館から写真記者として派遣されて遼東半島に従軍、海城でロシアとの戦いを目の当たりにし、そこで病気になって野戦病院に入院した。従軍記録「第二軍従征日記」を発刊している田山花袋が、「清国の狛犬」は歯獲【ろかく】=戦勝の結果、敵の軍用品などを奪い取ること「ーー品」広辞苑】したと二本の短編作品ので証言しているのである。
さらには、一九〇七年(明治40)『風俗画報』第摺号(東洋堂)には「廿七八年役に遼東より捕縛し来たるものなり」とある。(東京修学旅行ハンドブック・東京都歴史教育者協議会編)
『東京名所図会』(明治三〇年刊)には「其形内地の製と梢異なれり、是ぞ廿七八年の役に遼東より捕獲し来りたるものなり。
当時之を引き来るには、軍役夫中より獅子運搬組といふを編成し、新に堅固なる車を造り、各個分離して運搬せり(中略)雄獅子の台石に、大清光二年閏五月初六日敬立、雌獅子の方に直隷保定府深州城東北得朝村弟子李永成敬献石獅子一対と刻せり、真に是れ京観といふべきもの」という記述がある。
日清・日露戦争や第二次世界大戦中の戦利品が敗戦になるまでは遊就館内に展示されていたのであるから、この狛犬も「譲り受けたもの」ではなく、戦利品の一つとして野外に展示したことがうかがえるのである。
【編者注】日清戦争を「廿七八年役」日露戦争を「三十七八年役」と称していた。
①南門の公衆トイレが放火されて以降、南門は閉鎖されてきましたが、通行が出来るようになったそうです。
②遊就館大展示室に展示されている戦艦武蔵等の主砲弾横に、元航空自衛隊幕僚長田母神俊雄が寄贈した戦艦大和の模型がありますが、公選法違反で逮捕されて「容疑者」となったのにそのまま展示されているそうです。
③靖国神社オフィシャルガイドブック『ようこそ靖国神社へ』に「清朝の狛犬」と説明文があります。遊就館売店で見たところ、この部分が削除されているそうです。
靖国神社に電話をして、担当の神職に尋ねましたら、全体のページ数を減らすので項目を取捨選択して改訂版を出版しましたと言われました。
管理人が故松田修次さんと編纂した『ガイドブック葵から菊へ 20世紀の戦争遺跡から21世紀の平和を学ぶ』2002年11月23日第四刷発行(絶版)「前編 軍都“新宿”の変遷」「後編 靖国神社と九段下の戦跡」があります。
「後編」の60~61頁を抜粋します。
・・・・・・・・・・・引用・・・・・・・・・・・
狛犬
高麗犬の意。神社の社頭や社殿の前に据え置かれる一対の獅子に似た獣の像。
あ・うん【阿・吽】密教では、「阿」を万物の根源、「吽」を一切が帰着する知徳とする。=広辞苑
清朝の狛犬(靖国神社オフィシャルガイドブック『ようこそ靖国神社へ』より)傍線は編者
狛犬に続いて、すぐにまた狛犬が登場する。こちらは境内最古の狛犬である。日清戦争の後、朝鮮(海城)の三覚寺にあったものを、山県有朋らが譲り受け、明治天皇に献上し、天覧の後、靖国神社に置かれた。
【編者注】海城は中国の遼東半島にある。【写真・雄と雌】
田山花袋は清国の歯獲(ろかく)品と証言
「譲り受け」と靖国神社はオフィシャルガイドブック(33頁)で説明しているが、そのガイドブック(102頁)に「文学に見る靖国神社」がある。その中で「田山花袋の父も靖国に眠る」と田山花袋の作品「東京の三〇年」の文章を紹介しているので注目したい。
田山花袋は館林市に生まれたが、一五歳から三五歳まで市谷富久町、納戸町、市谷甲良町、内藤町、喜久井町、原町、若松町、市谷薬王寺町、北山伏町と二〇年間新宿区内に住んでいた。
一九一七年(大6)に博文館から発刊された『東京の三〇年』の中の「明治二〇年頃」に・・
『牛込の監獄署の裏から、士官学校の前を通って、市ヶ谷見附へ出て、九段の招魂社の申を抜けて、神田の方へ出て行く路は、私は毎日のように通った。(略) 大村の銅像、其頃はまだあの支那から歯獲した雄雌の獅子などはなかった。丁度招魂社の前のあの大きな鉄製の華表(とりい)が立つ時分で、それが馬鹿げて大きく社の前に転がされてあるのを見たそしてそれが始めて立てられた時には、私は弟と一緒に往きに帰りに、頬をそれに当て見た夏のことなのでその鐵の冷たいのが気持ちが良かった』
【編者注】華表(とりい)は鳥居のこと。この鳥居は現在の第二鳥居のことである。
同じく「九段の公園」に・・
『九段の招魂社は、私に取って忘れられない印象の多いところである。(略) それに戦死した父がそこに祭祀されてあるということが大きくなってからも私を其処に引き寄せた。(略)大村の銅像が立った時も私は知っている。その周囲に柵の取廻された時も知っている。日清戦役に海城(ハイチョン)で歯獲した雌雄の獅子の奉納された時も知っている。吉田晩稼の「靖国神社」といふ、大きな石柱の立った時も知っている。』
田山花袋は一九〇四年(明治37)日露戦争勃発により博文館から写真記者として派遣されて遼東半島に従軍、海城でロシアとの戦いを目の当たりにし、そこで病気になって野戦病院に入院した。従軍記録「第二軍従征日記」を発刊している田山花袋が、「清国の狛犬」は歯獲【ろかく】=戦勝の結果、敵の軍用品などを奪い取ること「ーー品」広辞苑】したと二本の短編作品ので証言しているのである。
さらには、一九〇七年(明治40)『風俗画報』第摺号(東洋堂)には「廿七八年役に遼東より捕縛し来たるものなり」とある。(東京修学旅行ハンドブック・東京都歴史教育者協議会編)
『東京名所図会』(明治三〇年刊)には「其形内地の製と梢異なれり、是ぞ廿七八年の役に遼東より捕獲し来りたるものなり。
当時之を引き来るには、軍役夫中より獅子運搬組といふを編成し、新に堅固なる車を造り、各個分離して運搬せり(中略)雄獅子の台石に、大清光二年閏五月初六日敬立、雌獅子の方に直隷保定府深州城東北得朝村弟子李永成敬献石獅子一対と刻せり、真に是れ京観といふべきもの」という記述がある。
日清・日露戦争や第二次世界大戦中の戦利品が敗戦になるまでは遊就館内に展示されていたのであるから、この狛犬も「譲り受けたもの」ではなく、戦利品の一つとして野外に展示したことがうかがえるのである。
【編者注】日清戦争を「廿七八年役」日露戦争を「三十七八年役」と称していた。