葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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故北宏一朗さんの講演記録「海軍の毒ガス製造」一周忌にあわせて発刊されました

2020年06月23日 | 化学兵器問題

遺棄毒ガス中国人被害者を支援する会」から 、「北宏一朗さんの講演記録」が送付されましたので、記録の一部を順次エントリーします。

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長谷川順一様
  前略
  「北宏一朗さんの講演記録」をお送りします。北さんが毒ガス被害者支援の活動の中で、調査し、考えてきたことを私たちの学習会で話されたものの「まとめ」です。
  北さんの一周忌にあわせて、つくりました。ご笑納ください。
                                                                                                  2020。6.21
                                                          遺棄毒ガス中国人被害者を支援する会・事務局長
                                                                                                      大谷猛夫

故北宏一朗さん

遺棄毒ガス中国人被害者を支援する会・事務局長 大谷猛夫さん


  
  化学兵器被害解決ネットワークの中心メンバーであった北宏一郎さんは2019年6月9日、膵臓がんのため、逝去されました。74歳でした。
  北さんは、在野の研究者として、日本軍の毒ガス製造と遺棄毒ガス被害問題の研究を一 人でコツコツと続けてきました。日本各地の毒ガス」の痕跡のあるところに出かけるという足でかせぐスタイルでの調査研究でした。その成果の一部は週刊金曜日のブックレッ卜などに収録されていますが、毒ガス製造と遺棄の実態はまだまだ未解明の部分もあります。
  北さんが、生前ネットワークの学習会で講演した中身を集めてみました(2014?2019年)。北さんの調査*研究の成果の上にたって、私たちも前進したいと思います。
  最後の2019年1月26日の講演は病躯にむち打っての講演となりました。ご冥福を祈り ます。
 
                                        も く じ
・日本軍の毒ガス戦を下支えした軍需産業(2014.1.8)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
・海軍の毒ガス製造(2015.1.9)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
・日本国内の遺棄毒ガス問題(2016.5.1)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
・真鶴沖に捨てられた毒ガス(2016.9.7)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6
・日本軍の毒ガス戦を支えた化学企業(2016.11.5)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
・神栖のいま(2017.11)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
・大牟田爆発赤痢事件の真相(2017.9.6)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
・日本軍遺棄毒ガス問題のいま(2019.1.26)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 12

海軍の毒ガス製造
                                                                                    2015.1.9

北さんが手作りした神奈川県平和マップ

管理人は2016年6月22日北宏一朗さんに平塚市役所敷地と周辺の案内を依頼した。


  海軍の毒ガスは隠されてきました。陸軍は大久野島で毒ガスをつくり、曽根で充填し、中国に運び、日中戦争で使い、遺棄してきました。マッチョみたいな悪いヤツです。それにくらべて海軍は紳士的と言われてきました。しかし、海軍も毒ガスを研究し、陸軍と同じように毒ガスをつくってきたのです。海軍陸戦隊は毒ガスをつくり、南方へ運び、使ったのです。
  神奈川県の平塚?寒川は本土決戦用に準備していました。現在の平塚駅の北側に海軍の火薬処がありました。無煙火薬を作っていました。昭和の初めごろ、海軍の技術研究所がありました。1943年に寒川に本処を移します。そこで、イペリット?ルイサイトなどの毒ガスを製造していました。化学戦の本部です。米軍の空襲が激しくなると、八王子の川口村に疎開します。


  敗戦後、この事実をひたすら隠します。占領軍に対して、この毒ガスは防御のためのものであり、艦船の戦いを想定していない、敵に飛行場をとられた時に使用不能にするためのものであって、実践では使っていない、と弁明するのです。しかし、この報告書にないものが2002年9月、縦貫道の建設工事の時に地中から出てきてしまったのです。この報告書に書かれてある以上の量の毒ガスがありました。本土決戦用に作っていたのです。
  なぜ隠さなければならなかったのでしょうか。国際法では、第一次世界大戦後、ジュネ ーブ協定が結ばれ、日本も調印しています。批准はしていませんでしたが、国際法上は毒ガスは違法になったのです。それ以前にハーグ陸戦規約もあり、残虐な武器を使わない、ということになっていました。ベルサイユ条約でも毒ガスは使わない、と決められています。だから、日本の敗戦時、毒ガスを隠すしかありませんでした。
  昨年(2014年)10月23日の東京新聞によると、22日の国連軍縮委員会で中国の代表が日本は日中戦争の時、中国で、1,331回、120万人の命を奪った毒ガスを使用した、と発言しました。それに対して、日本の国連代表は「客観的な証拠はない』と反論しているのです。これはまったくのウソです。被害者の証言、加害者の証言はたくさんあります。
  寒川で働かされた人は徴用エでしたが、生産が増え、人手が足りなくなると、動員学徒を使いました。13歳から17歳の少年を使いました。女子挺身隊も動員されました。学校単位で学生が召集されました。湘南?小田原?湘西などの中学生が動員されたのです。地方からも県単位で挺身隊が召集されました。あわせて3,000人ぐらいが働かされていました。朝鮮半島からも動員されました。大邱から強制連行された少年もいました。毒ガスをつくる、といわずに「特薬」と言っていました。ここで毒ガスを浴びますから、顔が赤黒くなっきます。ここで見たこと、聞いたことは絶対に他言するな、といわれていました。
  つくった毒ガスはどこへ運ばれていたのでしょうか。平塚駅から貨車で運ばれていました。貨車の行き先を覚えていた人がいます。「木更津」が多かったと言います。横浜航空部隊があったのです。ここから、船でトラック島などの南方に運ばれていました。また、大湊、網走などにも配備されました。対ソ戦に備えていたのです。
  海軍砲兵学校が館山にありました。ここでは本土決戦の作戦をたてていました。相模湾に米軍が上陸する、と想定しての作戦でした。陸軍では風船爆弾をつくっていましたが、 海軍もほぼ同時期にB級作戦として、風船爆弾をつくっていました。炭疽菌を使おうと考えていたようですが、直前になって中止になります。中止になったので、大量の和紙が余ります。この和紙で「防毒ガッパ」を作りました。寒川に特殊地下壕が残されています。 ここは地下兵器工場でした。この地下壕で電気の配線エをやっていた方の息子さんから話しを聞くことができました。敗戦後の隠蔽についてです。8月14~-15日に証拠隠滅の命令が出て、毒ガスを福島県や大分県の耶馬溪の山奥に捨ててきたというのです。富津沖や?子沖の海に捨てたという証言もあります。八王子の西川ロの山沿いの洞窟にも埋めたのもあります。また、敗戦後、工場から付近の住民にくばられたものがあります。コンニャクとカンテンです。コンニヤクは風船爆弾ののりにしました。寒天は細菌の培養につかわれたのです。海軍も細菌戦をやろうとしていたのです。
  働いていた人の健康被害はどうなったでしょうか。陸軍の大久野島の徴用工に対しては 1968年に共済制度ができました。公務員ですから、労働災害としての補償がつくられま した。しかし、海軍については、これができるのは1990年代にはいってからです。また、 動員学徒に対しては何もありません。働いていた人には労災がありますが、住民の被害については何もありません。平塚の地下水は毒ガスに汚染されています。1973年、毒ガスの原料が野ざらしになっているのが発見されました。鴻池組が処理しましたが、共同化学といっしょになって、茨城県の神栖にもっていきました。福岡の苅田港では曽根で充填し た毒ガスを運びだしていましたが、ここでも敗戦時に港湾に捨てていました。この処理をやったのが神戸製鋼です。
  毒ガスの処理といいますが、無害=無毒化ではありません。日本の毒ガスは有機ヒソがはいっています。これは燃焼させても無機ヒソになるだけです。ヒソは元素なので、それ以上分解されません。これを地中に埋めても地下水にまじって流れていきます。これがあちこちで被害をもたらしています。中国で今、処理事業をしていますが、中国は残留ヒソを日本に持って帰れ、と言っていますが、日本はあれこれ言って今は現地保管をしてい ます。
     このあと、会場からの質問にうつり、多様な質問が出されました。おもなものを記してみると
Q :毒ガスの実験はどうなっていましたか。
A :最初は研究者が自分の手に毒ガス液をつけて変化をみていたようです。次は動物実験です。そして、人体実験もやられました。事故でイペリットを浴びた人も出ます。平塚の馬入川のほとりのホテルの奥に寺があり、ここに奇妙な形をして、ただ南無阿弥陀仏と書かれているだけの慰霊碑があります。住職によると高砂鉱業にあった動物慰霊碑をもってきた、と言っていますが、人体実験をやった人の慰霊碑ではないかと思います。実際に徴用工の中で知恵遅れではないかと思われる人に対して、シャワー室に連れて行き、毒ガスを浴びさせた、という証言もでています。
Q :平塚の水は安全なのですか。
A :平塚市の水道事業は3ケ所の深井戸から取水しています。環境省の調査でも問題があ って、平塚市では、この水は飲用には使用しない、といっていますが、菜園で野菜を栽培したり、入浴に使ったりしています。人体に影響がないわけがありません。不動産価値が下がる、と言って詳しい調査もしないのです。


Q:寒川事件でその周辺はどうなっていますか
A::縦貫道の工事でビール瓶に入った毒ガスが大量に出てきました。工事現場は除去しましたが、そのまわりは何もしていません。5センチのアスファウルトをかぶせただけです。1㍍も掘れば毒ガス瓶が出てくると思います。また、平塚市の合同庁舍があるところの駐車場になっているところもそうです。


Q :米軍は本土上陸作戦で毒ガスを使おうとしていたのではないですか。
A:連合軍で熱心だったのはイギリス軍です。日本軍が南方のジャングルで毒ガスを使用し、不発弾を拾ったオーストラリア兵があり、それをオーストラリアのアボリジニーに人 体実験をして、使おうとしていたことは確かです。ついでに言うと、日本軍は毒ガスは「人道兵器」だと言っていました。やけどはするが即死はしない、敵に戦意を失わせるために必要、と言うのです。

ダンフォール作戦(米軍本土上陸作戦)の南九州オリンピック作戦

(了)

 

 

 

 

 

 

 

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