四日目 14:00~15:30 孫中山故居紀念館
木之内誠編著「上海歴史ガイドブック」より作図
1915年(大正4)10月25日、牛込区(現・新宿区)袋町の弁護士和田端宅で和田を立会人として孫文と慶齢は結婚誓約書に署名した。孫文48歳、慶齢22歳であった。
披露宴は11月10日、梅屋邸2階(新宿区百人町二丁目)の大広間で行われた。仲人は庄吉夫妻である。孫文と慶齢がトクの酌で三三九度の杯を交わすと、犬養毅が祝言の謡をとなえた。このあと、頭山満の仲立ちで孫文と庄吉が義兄弟、慶齢とトクが義姉妹の杯を交わした。披露宴といっても簡素なものであった。
孫文門下の革命志士たちは陳其美以外、誰も披露宴に姿を見せなかった。彼らは欠席することで孫文の結婚に反対の意思を表明したのである。
祝福してくれる人が多くない厳しい門出であった。そんななかでも物心両面で温かく支えてくれる梅屋夫妻に、孫文はあらためて恩義と深い信頼を感じたであろう。
現代において、孫文は「中国革命の父」、慶齢は「中国の良心」といわれる。慶齢は1981年に88歳で亡くなるまで、夫の遺志継ぎ中国の再建と人民の解放に一身を捧げた。庄吉夫妻が後押しした2人の結婚は、中国にとってまさに「救国の結婚」だったのである。
小坂文乃著「梅屋庄吉の生涯 長崎・上海で、孫文と庄吉の足跡を探す」より。
左から梅屋庄吉夫人ウメ、孫文、宋慶齢