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特攻志願者は一歩前へ!「五十年目の伝言」から

2015年03月27日 | 「五十年目の伝言」から
  特攻志願者は一歩前へ!

 岡 本 信 吉

 私は一九四三年(昭和十八年)十二月に、当時の日本海軍の甲種飛行予科練習生(予科練)として三重県津市の近くの三重航空隊に入隊しました。適性検査の結果、飛行機からの偵察員ということで、翌四四年三月、茨城の土浦航空隊へ転属しました。
 この、偵察員と操縦員の分かれが生死の一つの分かれでした。日本軍の飛行機の操縦者はほとんどが戦死しています。
 当時は軍国主義一色で、私は都立第一商業学枚に在学していましたが、勉強ではなく勤労奉仕ばかりで飽さあきしていました。
 周りでは「七つボタンは桜に錨」という歌がはやり、予科練の映画など上映され、意識的に予科練への憧れが作られていました。当時飛行機や軍艦に憧れをもっていたので、なんとなく予科練に志願して入ったのです。
 予科練に入ればすぐ飛行機に乗れるものと思っていましたが、そこは基礎体力を作るところでした。
 訓練は、運動とか体力を作ることを中心に、あとは通信の技術とかモールス符号を覚えるとか、偵察、射撃の訓練でした。
 四四年八月のことでした。土浦航空隊司令が突然私たち同期生全員を飛行機の格納庫に集めました。夏で暑いのに格納庫を閉め切って外には見張りをつけ、司令から話がありました。
 司令は、戦局はきびしく本土も覚悟しなければならない事態だ、と訴え、「新しい兵器が開発された。それは一度出撃すれば、おそらく生きて帰れない兵器だ。国のため、天皇のため、一死投げ出して報いる道はここだ。新兵器を使った攻撃に参加するよう要請を受けた」と言い、またこれはあくまでも個人の志願によるものという説明がされました。そして目をつぶれ、と言い、志願する者は一歩前、と言いました。
 私は一七才で、生死のぎりぎりの判断を迫られたのです。
 もし一歩前へ出なければ、隊へ帰ってから手酷い罰を受け、殴られることははつきりしています。私は薄目を開けて周りを見ました。みんな、仕方がない、というあきらめの心境のようでした。みんながそうだカらと思い、私も目をつぶって一歩前へ出まし。
 目を開けろとの命令で目を開けると、全員が一歩前へ出ていました。全員が形のうえでは志願した事になりましたが、これは明らかに強制でした。「死は鴻毛より軽し」という軍人勅諭(天皇が出した軍人への指針)の通りです。
 司令は大満足で、追って指示する、ということでその場は終りました。
 隊へ帰っても、どういう兵器かという不安と、みんな連れてゆかれるのかという不安で、いつもと違ってみんな無口でした。
 私は幸いその選にもれました。これが私の生と死を分けた二つ目の分かれでした。
 次第に分かってきたのですが、新兵器というのは、人間魚雷「回天」のことでした。爆薬を積んで一人で操縦し、体当たりする兵器です人間も一緒に爆発するのです。いったん攻撃に出れば生きては帰れません。
 一七、一八才の同期生がこれで死んでいったのです。
 これが日本の戦争です。戦争中は、人間性をいっさい無視した事が平然と行われていたのです。
 この年の八月、私たちは予科練を卒業し、飛行練習生として航空隊に配属され、私は鈴鹿航空隊に配属されました。しかし幾人かの同期生は、成人も迎えないで、行き先も秘密のまま人間魚雷として連れてゆかれました。
 鈴鹿航空隊へ行っても、もう訓練機はなく、飛行場を作る部隊などに所属して、そのまま終戦を三重で迎え、復員しました。
 今でも若くして死んだ同期生を思うと心が痛みます。そして今生きているのは運がよかったと思います。










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