不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

私の軍隊生活と経歴「五十年目の伝言」から

2015年03月27日 | 「五十年目の伝言」から
私の軍隊生活と経歴
       小 俣 佐 夫 郎

入隊
 昭和十六年十二月八日、日本帝国は遂に米英に対し宣戦を布告し、大東亜戦争にと突入した。満洲事変・支那事変・大東亜戦争と、私達の年代はまったく戦争の中で青春を迎えた。私も翌十七年一月初めに甲種合格で入営が決まった。
 品川区大井町駅前で多くの友人・家族の見送る中で「天皇陛下と御国の為に命を惜しまず戦って参ります」と精一杯、力を込めて誓いの挨拶を致しました。これも日頃先輩達を見送る度に「何時かは俺もああした立派な挨拶をしなくては」と心掛けていたことです。
 通知(入営)が来て、私は千葉県佐倉の歩兵連隊の小山隊に入隊した。
 軍隊という所はきびしい規律の所であり「日本男児なら一度は入って修行する場」と年寄から日頃聞いてはいたが・・・起床ラッパが鳴って起こきれ、寝起きが悪い、寝具の整頓が悪い、集合が遅い、食事の動作が鈍い、と、一日の行動を全て古年兵が目を光らせピンタを食わされる。
 夕食後の点呼は特に恐ろしい。初年兵同士を二列に並ばせ、お互いに頬のなぐり合いをせる。しまいには上等兵達はなぐつていると自分の手が痛くなるのでスリッパで叩く。お蔭で家族との最後の面会日には、「兄さん少し太ったんしゃない」と妹達にひやかされた。父親だけは自分も軍隊の体験者だからわけを知っていて、只一言「身体だけは気を付けろよ」と言って励ましてくれた。
 一般社会とは余りにもかけはなれた軍隊生活。私的制裁を許し、それに依って全て上官の命に服従する精神を養うのだろう。それに耐えられない者は逃亡するより道はない。百二十名入営して既に四人脱走者が出た。彼等の前途は軍法会議が待っているのみだ。

初年兵教育
 北京を通過して、広い大平原を数時間走り続けて、やっと着いた所は、中国山東省徳県の北支派遣軍衣兵団。
 私達は軍服を身にまとい小銃を肩に武装した軍人ではあるが、まだ小銃を撃ったこともない、敵と闘ったこともない。目的地に到着するまでは少し不安もあったが、徳県駅前の師団司令部に入ると何かと安堵の気持ちになった。それがつかの間、一つ星の初年兵を待っていたものはより厳しい初年兵教育だった。
 立派な日本軍の兵士として戦場で闘えるようになるのには此の過程を経なければならない。
 先ず朝、起床ラッパで起こされ、東の空に向かって天皇陛下に捧銃。
 日昼の軍事訓練は日本軍が誇れる九二式重機開銃。二十四㎏以上もある重機を普通は四人で片手に握り運搬するが、行軍の時は肩にかついで、また突撃の時には銃身と三脚(銃座)を分解し肩にかついで交互に搬送する。また作戦等には馬に搭載する。四人の他に弾薬箱を運ぶ兵士が四人、それに馬手が二人、全ての役を兵士は修得しなければならない。一時間も行軍すると、腕はしびれ肩ははれあがり膝はがくがく、それでも教官は馬上から駆け足を命令する。足が前に進まない。初めは誰でも途中で倒れ落伍するが、次第に克服きれてゆく。
 日昼の訓練の疲れをいやすには、消燈ラッパで床に入る時が一番楽しみで、床の中で近くの徳県駅から聞こえる機関車の蒸気と汽笛の音を聞き乍ら、祖国日本を思い望郷の念にかられる。
 私的制裁は依然として行われるが、千葉佐倉の軍隊のように逃亡する者はいない。此処は祖国を遠く離れた北支である。逃亡等して内地の親兄妹に汚名を着せるわけにはいかない。兵舎は厳重な鉄条網と深い堀と運河に囲まれている。
 「一ツ軍人は忠節を尽くすことを本分とすべし」が身について、第一期の検閲も終了、階級も一等兵と進級した。

歩哨に立つ
 中隊に帰隊した私達初年兵を待っていたのは意地の悪い古年兵。何かと初年兵の行動にけちをつけ整列でビンタをする。私的制裁を受ける。
 私は済南市の警備隊に配属きれ、済南駅・馬按山・飛行場入口等、済南市周辺警備の歩哨の任についた。第四中隊の重機班として配属になったはずが、毎日の勤務は小銃を握っての歩哨。
 歩哨に立っている時だけが少しはほっとした安らぎを感した。
 日本人居留民も多くいた。歩哨の前を通行する時は笑顔で「御苦労様」と軽く頭を下げる。中国人女性も笑顔を見せるが男性は無視か横向きで通る。歩哨は挙動不審な者は全て調べる権利があるからこんな時が日頃のウツプンをはらす時で、日本軍人として少し優越感を覚える。しかし日本軍の上官が通行する時は捧銃の敬礼をしなければならない。
 済南駅の歩哨では、毎日何十回も満載の軍用列車が奉安方面に向かって通過してゆく。反対に、北京方面には苦力(クーリ)や農民その他の家族、時には厳重なカギとバリケードで監視付(多分中国人捕虜。おそらく満洲の炭鉱にでも送られるのであろう)の列車も通過する。
 ある日、駅での歩哨交替が遅くなり、昼食の残飯も多く、洗い場に捨てようとした時、いつの間にか柵を乗り越えて侵入してきた中国少年達五、六人が、私の捨てた残飯を競い合い取り合って、持参した空き缶につかみ集めた。少年達の後方でばろばろの服を着た髪のばさばさした少女二人が、手製の布網で、私が食器を洗ったその流し水をすくって、残飯を自分の空き缶に集めていた或は何故か少年達をどなりつける気にはなれなかった。一週間程前、内地の妹よりの初便の中に「裏のトヨ子ちゃん(三才)はおひつに顔を突っ込んで母親からえらく叱られたよ。今、内地は配給米が少なくなった」と書いてあったのを思い出したからだった。
 夕方の点呼後、私は中沢上等兵と班長からひどい制裁を受けた二中国人に情けなんかいる か。それでも貴様は日本人か」
 私は自分の感情を申立てたかったが「以後気をつけます」と復唱し誓った。

激戦地山西省へ
 南方戦線ガタルカナルの急変で衣部隊も編成換えで移動が行われた。私は昭和十九年に上等兵に進級(中隊から三名)し、山西省塁兵団二四六大隊第四中隊に編入された。
 山西省は山東省(大平原)と異なり山岳地帯で樹木は少ない。が、鉱山資源〈鉄、石炭)が豊富で農産物も豊かな所である。この地の日本軍の占領支配地域は太原城(都市)から山西省最南端の路安県(長治)、沢州県(晋城県)に通じる鉄道と軍用道路のみで、その路々に日本軍の兵舎(駐屯地)と路線を守備する望楼があるのみ。まったく点と線の確保に過ぎない。
 私は久原中隊長の当番兵として、二四六部隊本部のある沢州県城の望楼を、中隊長について巡察して廻った。この浮山分遣隊は井の元兵長(私と同年兵}と兵七名で警備をしている。
 三日程前、八路軍約二百名位に夜襲を受けたばかりで、初めて戦闘を体験した初年兵は「これで俺は駄目かと思った」と戦況を語ってくれた。
 中隊長の指示で私は歩哨交替に立った。
 望楼は村はずれの小高い丘の上にあるので、此処から眺める夜空は素晴らしい光景で、子供の頃図鑑で見た群星、その中を流星が尾を長く短く引いて消えてゆく北斗七星は誰にでもハッキリと判る星だ。自分が望楼ではなく宇宙に立っているような錯覚に陥った。この時ばかりは一時戦争を忘れきせてくれる時だった。

駐屯地放棄と出撃
 昭和二十年、久原中隊は石塚中隊と交替し、東路線中間地点の虎亮鎮駅から百米程離れた駐屯地にと移動した。
 兵舎内では初年兵教育が始まった。
 戦況は日を追って激化してきた。
 ここ四中隊駐屯地にも八路軍は度々夜襲をかけてきた。鉄道線路をはずし持ち去った。
 中隊長は大隊本部の応援を得て反撃作戦に出た。兵舎の東方二K米の村落に約五〇名程の八路軍が集結しているとの情報で村落を包囲した。中隊長の指示で私ほか四名が斥候兵として、朝まだ暗い農道を避け、段々畠を這い上がって、村はずれの廟に静かに接近していった、つもりだったが、敵の歩哨に気付かれ後方に合図されてしまった。われわれが急いで歩哨を取り押さえてみれば、何と己の母親程の年齢の女性ではないか。カーつとなった私は銃尾板で頭で殴りつけ、足で蹴り、うずくまった所を谷底に突き落とした。木の生えていない山を谷底に向かって勢いよくころがり落ちていった。
 夜が明け、本隊がに突入した時はもぬけのからだった。農家の物置小屋から谷底まで通路が掘ってあった。

捕虜処刑
 廟下の線路に八路軍が出没したとの情報で六名で出撃したが既に敵の姿はなく、昼前に帰隊した。
 横井中隊長に呼び出された(久原中尉は日本に帰国)。そこには掘江曹長も下を向いて立っていた。何か日頃の様子と異なり、隊長の口許も厳しいものを感しさせた。それは、本日朝食後に八路軍捕虜七名を処刑したので、兵舎の西側の堀に死体を処理するように、との指令だった。
 初年兵教育も終了し、実技への訓練として兵舎南堀の中で、杭に縛られた捕虜を銃剣の的にさせたのである。捕虜の上半身は蜂の巣のように銃剣で突き刺きれている。顔、頭を利きれているのもあった。初年兵も刺す時ふるえて目をつぶって刺したのだろう。
 杭から縄を切って死体を運ぶ段になって小倉上等兵は、余りのむごたらしさに、「俺には出来ない」と言い出した。だが上官の命令には従わぎるを得なかった従事したわれわれ六名は皆昼食はのどを通らなかった。
 埋めた死体は翌朝は農民の手によって掘り返され、何処かに持ち去られていた。

狂気の作戦
 昭和二十年も夏に入って、八路軍の攻撃が目立ち、日本軍の出撃も激しさを増した日昼は米軍戦闘機の飛来で機関車は銃撃で破壊され、日本軍の輸送に大きな打撃を与えた。横井中隊長は農民の日本軍に対する非協力を怒り、兵を集め、鉄道周辺のを全部焼き払うよう命令した。
 兵士にマッチとローソクが渡された。農家の庭先に積み重ねられた燃料や、また家畜の餌として貯えられたワラ、コーリヤンに火が付けられ、家の中も放火され、全村焼き払われた日本軍の三光作戦である。
 日本軍が強硬な作戦をとればとるほど現地の治安は悪化した。

最後の分遣隊へ
 今までの分遣隊(望楼)警備では危険になってきた。
 私は次の分遣隊に派遣された。
 毎晩、岡野進派の解放軍がメガホンで「日本軍はまもなく連合軍に降伏する。日本軍の皆様、無駄な抵抗は止しましょう」と呼びかけていた。私は、そんな馬鹿なことがあってたまるかと思い、負けるなんてとても信しられむかった。
 しかし、信しられないその日が遂にやってさた。
 此処一週間程米軍機も飛来しない。敵の攻撃もない。
 敗戦の事実を知らきれたのは当日から三日後だった。中隊長から陛下の敗戦詔書を伝達された。

あとがき
 私の軍隊生活の経歴を忠実に記録することによって、戦争がいかに凶悪な犯罪行為であるか、その犯罪性を追求する上で少しでも役に立てばと願って書きました。
 軍隊に入る前は私も善良な勤労者でした。しかしたとえ上官の命令とはいえ実行した事実は免れません。
 受けた中国の人々の苦しみ悲しみを考える時、戦争に正義不正義はない、また、民族の優越感を抱いてはならないと思います。
 私は日本軍の軍隊生活の中で、軍国・反共思想の強い影響によって誤った人生の生き方をしていたことを、中国解放軍の捕虜となり収容所で学習を受けることによって知りました。
 終戦から帰国するまでの九年間の経歴もさらに記録して、若い人々と次の世代に、平和と民主主義をかちとる大切きを語り継ぎたいと願っています。

管理人注】小俣さんは03年1月に「残留 日中友好の誓い」を上梓しました。小俣さんは敗戦後、参謀たちの陰謀により国民党山西省閻錫山の軍隊に残留して八路軍を相手に闘ったのです。その後捕虜になり、人民解放軍太原戦犯管理所における学習(担白=タンパイ=自己反省)によって「日本人鬼」から「人間」に戻る奇跡を起して1954年に帰国したのです。その後は日本中国友好協会新宿支部副支部長、日本軍の三光作戦を調査する会、中国山西残留を語り継ぐ会(西稜友の会)、日本共産党戸山ハイツ後援会会長などで活躍されていました。
2017年1月にご逝去されました。


     




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 特攻志願者は一歩前へ!「五... | トップ | 西荻窪こけし屋で荻中クラス会 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

「五十年目の伝言」から」カテゴリの最新記事