防衛庁(現防衛省)本庁新築工事に先立って行われた尾張徳川家上屋敷跡の市谷本村町遺跡調査は江戸時代の遺跡だけが報告され、明治7年に開設された陸軍士官学校や昭和16年に設置された大本営陸軍部と三宅坂から移転をしてきた陸軍省の遺跡はウヤムヤにされてしまいました。
ところがその後、毎日新聞社社会部記者の調査で、敗戦直後 に大本営陸軍部が焼却し、土中に遺棄したはずの書類の束(主として参謀本部第三課)が保管していた文書が見つかっていたことが明らかになりました。防衛庁(当時)はその書類の束を青梅市の調査会社に預けました。調査会社はその書類を冷凍保存し、書類を一枚一枚ピンセットで剥がし、分析をしました。
その書類は、防衛省防衛研究所図書館で「市ヶ谷台史料」として公開されていますのでアップします。
「市ヶ谷台史料」について
一、昭和二十年八月十四日日本政府は閣議でポツダム宣言受諾を決定するとともに重要機密文書の焼却を決定した。これに伴い陸軍は各部隊・官衛・学校などに機密文書の焼却を指令した。陸軍省、参謀本部など陸軍中枢機関の所在した市ヶ谷台では数日にわたり秘密文書が焼却された。
二、平成八年四月末、自衛隊市ヶ谷駐屯地で東京都埋蔵文化財センターが旧尾張藩上屋敷跡の発掘調査中、焼却された筈の旧陸軍文書が焼け残った状態で大量に発見された。
三、発掘された史料は、大半が焼損し、約五十年間にわたり湿気を帯びた状態で土中に埋没されていたため、劣化が著しく頁を開くことも出来ない状態であった。戦史部は文化庁国立文化財研究所の助言と修復事業者の意見を参考として修復可能でしかも史料価値の高いものを選別し、青梅市の「東京修復保存センタ ー」で修復作業を開始した。
四、発掘された史料は、主として参謀本部第三課(編成・動員課)が保管していた文書で編成・動員などに関する御裁可書、編成表、電報綴等である。これらの史料は、日本陸軍の戦争指導、作戦指揮に関する史料として当防衛研究所戦史部に欠落している部分を補完する史料であり、また『戦史叢書』のなかで関係者の記憶をもとに記述された部分を裏付ける史料として重要な意義をもつものである。
平成九年十二月十五日
防衛研究所戦史部長 辻川健二
(04.8.17 管理人が閲覧したメモ書きをワープロ文書にしたもである)