葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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道路拡幅予定地の「薬王寺町遺跡」から出土した防空壕跡

2010年07月23日 | 歴史探訪<軍都新宿・市谷刑務所>

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さる6月21日付で財団法人東京都スポーツ文化事業団・東京都埋蔵文化財センター所長宛てにブログに掲載目的とする資料掲載許可の申請をしていた都道環状3号線(外苑東通り)の道路拡幅予定地「薬王寺町・柳町遺跡」から出土した家庭用「防空壕」の写真を現場事務所の担当者から、本日受領しましたのでブログにアップします。

防空壕の大きさは、縦約2.2メートル×横約1.35メートルで、深さは表土を掘削していますので不明です。6個の穴がありますが、柱を立てた穴だと推定されます。薬王寺町内の二人の古老が、戦前この場所(新宿区市谷薬王寺町5番地)に家庭用防空壕があったと証言してくれました。

埋蔵文化財の専門家である担当者としては家庭用「防空壕」であるとは正式には認定していません。公式には近代(江戸時代)遺跡ではなく、現代の遺跡であるとしか言えないそうです。

何故ならば戦争遺跡である「防空壕」は遺跡調査対象外だからです。

東京都教育委員会から要請されているのは「近代遺跡」のみを遺跡報告書に記録すれば良いことになっているそうです。

ですから防衛庁本庁新築工事(当時)に先立って行われた尾張徳川家上屋敷跡の市谷本村町遺跡調査報告書にも江戸時代の遺跡だけが報告され、陸軍士官学校や大本営陸軍部の遺跡調査はウヤムヤにされてしまいました。

ところがその後、毎日新聞社社会部記者の調査で、敗戦直後 に大本営陸軍部が焼却し、土中に遺棄したはずの書類の束が見つかっていたことが明らかになりました。防衛庁(当時)はその書類の束を青梅市のある調査会社に預けました。調査会社はその書類を冷凍保存し、書類を一枚一枚ピンセットで剥がし、分析をしました。

その書類は、防衛省防衛研究所図書館で「市ヶ谷台史料」として公開されていますので、その一部を明日、ブログにアップします。

 

 

 

 

 

 

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