葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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エッセイ 「寒天のお話  ――母の731オーラルヒストリ――」 中川三郎

2018年10月03日 | 人骨の会・731部隊・石井四郎

友人の門前教三さんから提供された「同人誌 置文21」に、関東軍第731部隊長石井四郎中将と石井式濾水機メーカーの日本特殊工業(新宿区若松町)に関係するエッセイが掲載されています。
置文21の発行責任者と著者中川三郎さんの転載許諾を戴きましたので転載します。
中川さんからWordで原文を戴きました。


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古いダンボール箱⑬
寒天のお話
 ――母の731オーラルヒストリ――

中川三郎
 
寒天食べたら、あかん、お父ちゃん、よう言うてたやろ。ものすごう、バイキンふやしよる。そのせいで、らの家でや食べたことあらへん。
いま、私の手もとに、一枚の紙きれあります。古うて色あせた1通の辞令です。

 それだけです。毛筆の楷書体で簡潔にしたためてあります。その会社の割印と角印が厳かに墨黒ぐろと捺してありますねん。ほんま、ごくふつうの事務文書ですやろ。けど、それがクセモンですな。日本のお国が、近代の歴史で隠したのこと、これ、雄弁に物語ってます。といいますのも、この日本特殊工業というのが、あの「悪魔」の731部隊(正式名称は関東軍防疫給水部本部)、陸軍御用達の会社でっさかい。実際、石井部隊ともよばれる、石井四郎(軍医少佐、のち中将)さんが発明しやはった「石井式濾水器」の製造を陸軍省から独占的に大量受注したうえに、日中戦争中の満州国・郊外ので厳重な警戒監視のもと極秘裡に建設してた細菌製造工場への研究器材などの搬送、設置など一手に請けおって、巨額の利益を得てました。その一部が石井部隊長の袖の下へ、というわけです。毎晩、神楽坂で豪遊してはったそうでんな。(笑)むろん、その賄賂が軍資金ですがな。
 そんな国策会社の一として、遠い満州北部へかはった。せやけど、お父ちゃんに白羽の矢が立ったのやろ?これ、の憶測やけど、東京の慈恵医大で2年間海軍の軍医めざしてはったのが、家業の鉄工所が大阪砲兵工廠から兵器製造や戦車などの修理業務を受託するため、専門教育を受けた人材が必要となった。旧福井高等工業学校(現国立福井大学)へ転校したのです。「なんで、福井みたいな田舎へ行かはったん?」とねたら、「泉鏡花にあこがれてな」と。お父ちゃんは理数系やのに、ロマンチックな文学的感性もあった。
どちらにもせよ、そんな両分野の学問を修めた希少な学歴と鉄工所での実績が、中国侵略戦争の戦火を拡大する帝国陸軍の目にとまった可能性は、十分あると思います。
昭和13年3月から、お父ちゃんが今宮職工学校で数学と精密機械を教えていたとき、その特殊工業の人が、学校をつうじてお父ちゃんに会いにやってきた。自分の会社は、国内のみならず、いよいよ満州へも進出しております。つきましては、中川さんのような優秀な技術者のお力をかしていただきたい。これはわが一社のためではなく、お国のための名誉とやりがいのある仕事です。もし、わが社へきていただけるなら、中尉待遇の軍属としておむかえします。徴兵もまぬかれます。どうか、ぜひ……
あの「辞令」にある「哈爾濱出張所詰」を「免」じて、「設計部第一主任」を「命」ずる、とのいささか重い肩書も、それを示唆しているような気もします。なんでや言うたら、当時の日本の最先端技術の粋を結集した秘密基地での、各種の細菌研究とそれら病原体の培養から製造までの一貫したシステムが、近代医学と機械工学とのを必要としたからです。実際、全施設内には、24時間体制でその量産と恐ろしい部隊内感染の予防のため、当時としては驚くべきセントラルヒーティングと水洗式トイレを完備しており、ましてや毒ガス実験室に象徴される、多岐にわたる恐ろしい実験装置や設備はいうまでもありません。当時、石井部隊長の腹心で、「番頭」ともよばれた、おもに東京のこの部隊の「隠れ蓑」的な陸軍医学校内にある防疫研究室の責任者・内藤良一(のちのミドリ十字の創設者)が、新任の若い医学者に「機械工学と電気工学を学びなさい」と教えさとしていることからも、この部隊の裏の顔を如実に暗示しているといえます。
……長男T郎が五歳のとき、昭和13年。大阪から11時間かけて上京した。新宿大久保若松町(録音源ママ)のに、五〇坪のりっぱな社宅が用意してあった。中将湯の風呂屋があってな。お父ちゃん、歩いて病院へ通いはるねん。飯田橋の第一病院(東京医科大学説もあり)。そこで石井の濾水機をこうてバイキンの研究していた。(しかし飯田橋へ歩いていくには、遠い。疑問=中川)一方で、近くの陸軍軍医学校(石井四郎創設の『防疫研究室』)へ歩いて行き来していたのとちがうやろか。(母の言葉ではないが、後述する)不思議なんは、同僚とか仕事仲間のような人が、誰ひとり家へえへんし、電話もあるのに一度もかってこない。何してるのか、いっさい言わはれへん。半年ほどたって、ある日、何の連絡もなしに、お父ちゃん、家に帰ってきやはれへん。お母ちゃん、やがな。大阪しか知らん田舎娘やろ。T郎とおうてな。第一病院へいって調べてみても、わからへん。心ぼそうて、大阪から、おじいちゃんとおばあちゃん呼びよせた。けど、それから二年間、お父ちゃん、どこへ行かはったのか、手紙も連絡もいっさいあれへん。とうとう、行方知れずになってしもうたのや。
 
その「辞令」の「昭和年月十五日」という日付が、下記の証言中のその時期とぴたりと重なるのには、驚ろかされます。
「篠塚ら少年隊第1回後期の少年たち29名が平房に到着した昭和年月(2か月後!=中川)は、七棟と八棟の内部工事が完了した時期だった」
  (『731』青木富貴子 新潮社)
「当時の部隊は外廓建築がだいたい終わり、滅菌器、その他の研究器材がホームに山積し、いよいよ内部設備にとりかからんとしていた時期であった。(中略)研究器材の発送所は日本特殊工業株式会社であり、私が現地到着時特殊工業から派遣された者2、3名、現地で採用された5、6人(いずれも日本人)の一団があり、7、8棟外の器材の組立て取付等は特殊工業の社員と協力して行った」
 との証言(少年隊員だった萩原英夫氏)がありました。そのとき、萩原少年の眼に映ったその「社員」のなかの一人が、お父ちゃんかもしれへん想うたら、深い感慨を覚えずにはいられまへん。       【註3】
この「七棟」と「八棟」は、巨大な矩形の、白堊の外壁タイルばりの「ロ号棟」内に左右対照の形に配置された、通称「マルタ小屋」とよばれる特設獄舎でありました。その獄舎で「飼育」してた「マルタ」とよばれる「人間モルモット」を、医者の研究テーマごと一匹、二匹、三匹……引立てて、凄惨な人体実験をくりかえしてた。殺害含め3千人といわてます。
それにしても、なんとこの実験システムの合理的かつ効率的なこと。日本人の美徳といわれる「もったいない」の精神がいかんなく発揮されて、「マルタ」を骨の髄まで実験材料に利用しつくしました。
このロ号棟が全施設のでっけど、そこには人間に対する一片の同情も憐憫の情もありません。むろん、戦時中いうのは、よう分かってまっせ。せやけど、にはこの設計理念そのもんが、空怖ろしい。ほんま、石井四郎はんの「悪魔の発明」でんがな。

ある日、お父ちゃん、狂人のようになって、帰ってきた。どこで何をしてたのか、いっさい喋らはらへん。昼も夜も神経がたかぶって、家のなか、うろうろ歩きまわる。夜も寝られへん。戦争中やから、好きなお酒もあれへん。終戦後の東京裁判のとき、もうそら恐がって……人と会おうとせず、7年間うつ病みたいやった。
お父ちゃんがハルピン行ったことも知らん。知ったのは、テレビで昔の石井部隊についてきにまわっていた。【註1】
お父ちゃんが、わしも向こうへ行っててんけどな、うっかり近所の人に言わんといてくれよ。わし、どこへ連れていかれるか、わからへんから、いっさい喋っらアカンよ。なんや、ものすごう恐がってはった。せやから、子どもに何も言うたはれへんやろ。
えらいこっちゃてんでぇ、言いかけはった。どないでんねん、
んねたら、大きな豪華なホテルやねん。暖房どんどん焚いて、広い部屋でたったひとりで寝てんねんて。わしが外へ出て、軍隊のサイドカー乗せて、憲兵がけついとんねん。走っても走っても、どっち向いてるのかわかれへん。遠いところへ行くねんて。前に支那人がトラックいっぱい柴みたいに積まれてどんどんどんどん……その後ろわえて自分らが行くらしいわ。それで、大きな中に人おって、どないやらしやはると、みなパタッとすぐ死んでしまうねんて。それを自分が実際に見てたから……自分がつくった機械で……第一設計主任やろ。一番責任が重いらしいわ。自分がつくったから、うまいこといってるか、見に行かなんだら……自分がそんな恐い仕事してるて、知らなんだ。     【註2・3】
 子どもらに知らしたくない。男の子ばっかりやさかい、やっぱり何も知らんと素直に大きゅうしたい。日本の国は(中国へ)悪いことしに行ってんねん。自分が喋ったこと思い出して、その子が成長したときに具合悪い。言わんほうが、ええ……
      ※
……(『満洲随一の清潔な軍隊』と隊員たちが誇っていた関東軍防疫給水部本部だが)ただ一つどうにもならないものがあった。それはムッと鼻を突く猛烈な腐敗臭が、本部建物全体をおおい、ときには外部にまでもれることであった。その悪臭の正体は、主として寒天の腐った臭いであった。……寒天で細菌が繁殖するための下地―無菌の培養基をつくり、ペスト菌やコレラ菌などを植えつけ……高圧滅菌器にかけると寒天の培養基は猛烈な悪臭を放つ……
(森村誠一『悪魔の飽食』)
      ※
【註1】こんなお父ちゃんが、のは、戦後60年もたった1982年。深夜番組「11pm」で森村誠一氏が731部隊についてゲスト出演したのがきっかけで、重い口をひらいたのです。
▼初稿で、私はこう書きしるしていたが、ある方のご指摘で明らかな誤まりと判明しました。なぜなら、父政雄は1981年1月31日に死去しているからです。それじゃ、父と母が観た可能性のあるテレビ番組は……とインターネット検索してみると、ありました。奇しくも、父が亡くなる、ちょうど一年前の、1980年1月26日テレビ放映の「帝銀事件」です。こののドラマが、戦後初めて731部隊が登場したものらしい。(他にもありましたら、ぜひ、ご教示ください)
 いずれにしても、何らかのテレビ番組を目にして、自身が戦後六〇年間、固く閉ざしていた
心の秘密の箱の蓋が、その一瞬開きかかったのでしょ。
「これや!わしも行ってたんやで……」
そんな意味の衝撃の言葉を、初めて傍らの母にらしていたそうです。
【註2・3】自分がそんな恐い仕事してるて、知らなんだ。(録音源ママ)
▼初稿では、
「自分がそんな恐い仕事することになるとは、知らなんだ……」
 と書きましたが、当時他の方の証言でも、同部隊の実態は、主に医学関係者以外、現地へ赴任して初めて分かってくる、というのが、多数でした。(とくに国内では最高の軍事機密)
父がどの時点で、それを知ったかは、分かりませんが、すくなくとも日本特殊工業からのオファーがあった時には、知らされなかったと断定してよいと思われる。
▼この「機械」というのは、毒ガス実験室と推測される。「自分がつくった機械」との母の証言は、重大だが、どこまでかかわったうえで、現地でメンテナンスをおこなっていたのだろうか?(後述)
▼(2か月のち(!)
千葉県加茂の少年隊が遥ばるこのハルピンにやってきて、3か月間の研修をうけるのです。そこで徹底的に「軍機保護法」と「陸軍刑法」をたたきこまれて、憲兵から「これを犯せば軍法会議で厳罰に処す」と脅されます。つまり、父の場合も、昭和14年2月の前3か月間は「哈爾濱詰」としてこのような研修を受けたと推察されます。
 当時の関東軍防疫給水部(731部隊)で、少年隊員は東京の新宿区戸山町にあった陸軍軍医学校(現国立感染症センター)内にあった「陸軍軍医学校防疫研究室」へ集められ、そこで石井式濾水機や寒天培地の作り方を一か月間教えられたりしました。(昭和14年4月1日)
 父の場合も、哈爾濱へ向かう前に、これのような期間があったと想像されますが、わざわざ社宅まで用意して、しかも新婚早々の妻と子もいっしょに、いたからにはすくなくとも1年間くらいは、なにかの(たとえば、当時おなじ敷地内にあった陸軍科学研究所。ここでは毒ガス実験・製造をおこなっていました。現在の僕の最大の関心事は、731部隊でおこなわれた毒ガス人体実験用のガス室(チャンバー)がどこで製造されたのか?ということですが、自分はこの陸軍科学研究所だと推測しております。とはいっても、まだ哈爾濱へゆくまえの民間人の父に知らされたとは考えにくい。可能性のあるのは、「満州猿」を実験に使うと説明されたとか……実際、戦後医学者の博士論文などでは、この名称で人体実験を糊塗しています。
(補注)本稿は母の録音源を基にして、私の創作的要素と文献資料により成りたっております。

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陸上自衛隊三宿基地内「彰古館」に展示されている。(2015年4月10日管理人が撮影。)





(了)


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