国会図書館で閲覧・複写した萱場工業株式会社の社史(出版1975.12 非売品)「油圧に生き 油圧を超えて 風雪と激動の40年」の一部をアップします。
萱場工業40年の歩み
序 章 萱場資郎と個人経営時代
終末兵器への夢
萱場工業の歴史はワシントン軍縮条約の発効ととも
に、幕がひらかれる。当時、海上決戦の主力とみなされ
ていた、戦艦保有量を五・五・三の割合い(米英五に対
し日本三)に制限された日本海軍は、雄大な八八艦隊構
想(戦艦・巡洋戦艦それぞれ八隻を基幹とする艦隊)を
放棄して、にわかに航空母艦以下の補助艦艇充実に力を
注ぐことになった。
これは必ずしも太平洋戦争時代にみられるタスク・フ
ォース(機動部隊)的な思想に基づくものではなく、艦
隊決戦の場において、主力部隊の〝隙間″を航空兵力そ
の他によって補なおうとするものだが、海軍工廠、主力
造船所で大量解雇という暗い日々がつづく中で作戦、艦
政当局ともそこに一条の光を見い出していたことはたし
かだった。
ちょうど、そういう時代に萱場工業の創立者・萱場四
郎(のち昭和十八年に資郎に改名)は海軍に身を投じた
のである。
明治三十一年、仙台在の富裕な農家に生まれ、青春期
をミッション・スクール東北学院で育てられた、この眉
目秀麗な青年は、ある日突然「終末兵器思想」にとりつ
かれる。最強力の〝武器″のみが、キリスト的平和をも
たらすというのである。たしかに、発明の天票は少年時
代からのものらしい。早稲田大学工科に在学中も、東大
造兵科の講義ノートを借り出し、夢中でむさぼり読んだ
こともあるが、すぐに学校への期待を放棄してしまう。
天才にあり勝ちな、階段を飛びこえて、直ちに結論へ到
達してしまうせっかちさが、学問の迂遠さに馴染めなか
ったからであろう。
それと同時に、第一次世界大戦のはなばなしく、かつ
凄惨なニュースが日々つたえられる中で、学校生活をお
くった多感な若者は、戦争の刺激を存分に受ける立場に
あった。戦争が終った大正八年、東京芝浦日之出町の一
隅に、わずかな資金をもとにして「萱場発明研究所」を創
設、それからわずか二年後の大正十年には海軍艦政本部
の造兵、航空嘱託を兼務するようになる。それにしても、
白面の一青年を、世界に冠たる〝大海軍″が、なぜ双手をあ
げて歓迎したかは一つのナゾであろう。大正十二年九月
一日の関東大震災によって「研究所」が文字どおり崩壊
してしまうと、艦政本部は直ちに彼を専任の嘱託に迎え
入れ、竣工したばかりの航空母艦「鳳翔」を素材に、航空
甲板上における発着艦装置の開発に取り組ませた。これ
が「油圧」を萱場に結びつける最初のできごとだった。
ワシントン会議(大正十一年)の結果、日本海軍は期
せずして三隻の空母をもつことになったが、その一番艦
が「鳳翔」である。この艦は大正八年起工、同十二年竣
工の世界初の正式空母で、ある意味では日本海軍の〝先
見性″を証するに足るものだが、それだけに、蟻装その
他の細かい装備になると、海軍の専門家たちも、はじめ
ての経験に戸惑った。
大正十二年二月、英人ジョルダン大尉は、
海軍技術関係者(その中に萱場四郎もいた)の見守る中
で、鳳翔の飛行甲板に見事着艦し日本海軍の空母運用に
歴史的な使命を果したが、つづく日本士官による着艦実
験中、そのうちの一機が艦尾のピッチングによって跳ね
上げられ、ジャンプして機体もろとも、舷側から海中へ
転落する事故がおこった。
その結果、艦本を中心に「母艦発着装置研究委員会」
が生まれ、萱場も担当委員の一人に加えられた。当時の
着艦装置は、英国が改造空母を使用したタテ索拘捉シス
テムが採用されていた。タテに張られた無数の鋼索に、
艦上機装着の拘捉用フックを引っかけ停止する方法である。
ところが、タテ索拘捉の緩衝装置が機械的な方法によ
っていること、風上にむかって全速で走る空母の甲板上
では、着艦時にしばしば艦尾のゆれが大きく、風圧によ
る機体の不安定さと重なって、つぎつぎ着艦する実戦時
には前記の連続事故さえ想定されたのである。
いまこそ、鳳翔ただ一隻の保有にすぎないが、すでに
ワシントン条約によって、戦艦または巡洋戦艦として設
計された「加賀」「赤城」両艦を空母に改装中である。
着艦時の安全性は作戦、艦政両当局ともに焦眉の急を要
する問題だった。
萱場は大正十二年から同十五年までの三年間に、六種
類の発着艦装置を考案し最終的にはいずれも前記の三空
母に儀装されたが、このうち、油圧技術と密接に結びつ
き、萱場の天稟を遺憾なく示したのが発着艦自動コント
ロール装置だった。
すなわち、それまでの甲板着艦時には、各遮風、防護
柵、タテ索緩衝などを機械力または人力で個別に動かし
ていたものだが、彼の発想は前方遮風、左右舷側遮風装
置、安全防護柵の大型機械、タテ索一斉張緩装置などを
油圧作動筒または圧縮空気作動筒によって、舷側の指揮
所からほとんど一人の手で、飛行機の発着に合わせ秒単
位のリモートコントロールが可能なシステムであった。
これらの諸装置は長さ一八〇㍍、幅三〇㍍の広い空母甲
板上に点在し、三三〇の大小油圧、気圧作動装置でタイ
ミングよく起倒されるものである。
最初この設計図を受けとった、横須賀海軍工廠は『こ
んなバカげた装置などつくれるはずがない』といって、
ぼう大な図面をそっくり送り返してきた。当時の海軍部
内はもとより、民間の技術レベルでは〝遠距離油圧伝導″
など全く考えられていなかったし、そのうえ航空母艦の
甲板は三〇センチの厚味しかなくその下は格納庫になっ
ていたので、下の方の突起物は架装できないとされてい
たのである。しかし萱場はこれが唯一最良の方策である
と頑張り、この通りつくるよう再訓令されたいと艦本の
上司にかけ合い、ある程度の手直しに応じたうえ、大正
十五年にまず鳳翔に艤装された。
独創的な空母発着艦装置
その過程で、大正十四年、彼は飛行機自体の油圧緩衝
脚と横索油圧制動装置の創案へすすんだ。油圧緩衝脚-
オレオについては、のちのちまで萱場工業の主製品とな
るものだけに、改めて説くこととして、さきの空母発着
装置と関連する横索制動のアイデアから説明することに
しよう。
従来のタテ索制動は、無数の鋼索を張りめぐらすとい
う点で、必要以上の荷重と手間を乗組員に担わせること
になり、これを何んとか合理化しなければならない-と
いう発想は研究委員会の中にも存在した。しかし、萱場
が提案した、四本のヨコ索を張って、そこに飛行機のフ
ックを引っかけ停止させようというアイデアは、あまり
にも突飛で危険なものと受けとられた。経験豊富な空母
飛行長までが『そんなことをしたら、飛行機がちぎれて
しまう』というのである。
萱場は怏怏と楽しまなかった。これこそ理想的な着艦
装置として提案したものが、一人の賛成者も部内に得ら
れなかったからである。
ちょうど、そんなとき、十五年の社歴をもつ株式会社・
日本絹織機製作所(資本金五〇万円、四分の一払い込み)
が事業不振のために売りに出されていることを知った。
同社は十五年の社歴をもつ絹織機の名門で、最盛時は一
五〇名の従業員をかかえていたが、大震災後の不況で倒
産し、従業員管理の状態にあった。海軍部内で志を得な
かった萱場は、もっと自由な民間企業をおこして、側面
から海軍の技術革新を促そうとする野心にもえ、友人の
すすめるまま、同製作所の入札に応じ、三年賦で買取る
ことに成功した。
この工場(酉応寺町)の敷地、建物、機械および人員
をひきつぎ、昭和二年一月十九日、個人経営の萱場製作
所が誕生したのである。発足時の従業員四三名、所長兼
技術部長萱場四郎、製造部長山本大三郎(前、日本絹織
機専務、技師長)総務部長高橋綱吉(元芝浦製作所工場
長)の陣容であった。創業当時は日本絹織機時代のL型
絹織機の継続生産をすすめる一方、海軍艦政本部長宛に
海軍兵器製造工場に指定されたい旨の願書を提出した。
これには製造希望品目として、海軍機の油圧緩衝脚と航
空母艦用諸設備の名が付記されており、嘱託時代からの
萱場の執念が感じられる。同年二月十五日、新生の萱場
製作所は「海軍機密指定工場」になった。
他人の工場を買いとり、店開きしたばかりの個人企業
が、海軍の指定工場になったかげには、たんに萱場四郎
の海軍嘱託時代における天才的なひらめきが、一部の上
級軍人に認められていただけでなく、それなりの部内工
作も潜行的に行なわれていたからである。大正十五年、
彼がまだ嘱託時代ひそかに部内の中枢を説き、当時の艦
政本部長山梨勝之進の決裁を得た次の覚書が〝工場指定″
には大きな働きをしたものと思われる。
萱場海軍在職中の成績は左記(省略)のごとく顕著にし
て、その発明的天才はまれにみる所なり。航空兵器の改
良進歩を要望するもの特に大なる今日、かくのごとき優
秀なる発明家は益々これを実際的に指導啓発し、充分そ
の天才的技能を発揮せしめ直接間接海軍の為貢献せしむ
るの要ありと認む。(以下略)』
飛行機油圧緩衝脚の開発
昭和二年二月十五日、海軍は萱場製作所を機密工場に
指定すると同時に、前東京海軍監督官長、少将山田正興
を顧問として送りこみ、あわせて十年式艦上戦闘機、同
偵察機、二二式攻撃機用の油圧緩衝脚を発注した。この
油圧緩衝脚は大正十三年、萱場が海軍在職中に考案、そ
の後二年かかって試作実験に成功していたもので、着陸
時のショッグを吸収する油圧装置である。いまでこそ、
固定脚であれ、引込脚であれ、ほとんどの飛行機に装置
されているが、当時にあっては〝極秘兵器扱い″を受け
ていたのである。
このオレオは、すでに試作実験ずみの製品なので、直
ちに新会社のメシの種になった。これと平行して、萱場
は海軍時代からの懸案だった「横索制動装置」の設計試
作にとりかかり、同年六月には早くも第一号機を完成し
て海軍に実験を申し出た。もちろん、誰も信用しない制
動装置なので、直ちに空母艦上で行なうわけにいかず、
陸軍から代々木練兵場を借用し、乗用車ナッシュを使っ
ての陸上実験である。単には重量一トンになるよう兵隊を
大勢のせ、これに曳行フックをつけ、最高九〇㌔の速度
で、陸上に張られた横索制動の実験をしたわけだがショ
ックは全然なく、つねに四五㍍くらいのところで停止す
る上乗の結果であった。半信半疑の海軍も、この実験に
ょって試作品を五万円で買い上げてくれ、横須賀海軍航
空隊が再三、地上実験を行なったのち、ようやく空母上
に正式蟻装されることになった。
昭和三年二月、萱場式横索制動装置2号機(実験用の
のち発注)は、はじめて鳳翔に艤装され、これに伴って
従来の一六〇本以上におよぶタテ索やその張緩装置、駒
板、起倒装置は一斉に取り外され、広い甲板上には四本
の横索が張られるのみのフラットデッキとなり、つづく
赤城、加賀もこれにならった。
その後、太平洋戦争末までに、日本海軍は全部で二五
隻の空母を建造したが、それにはいずれも横索油圧制動
装置を装着しており、米、英、仏など主要海軍国の空母
も大同小異の制動システムを採用した。それどころか
べトナム海域に出動した米第七艦隊空母のニュース映画を
みてもわかるとおり、ジェット機時代の今日なお、着艦時
の超音速機でも、昭和初年に萱場が考案したようなフッ
クをおろし、甲板上の横索に引っかけて停止している。
「簡単な仕組みほど〝真理″に近い」という萱場の信念
は見事に立証されたことになる。
初期の試作・完成品
横索制動の実験が成功した直後、二年七月にこんどは
海軍航空本部からカタパルトの試作注文を受けた。軍艦
から飛行機を射出するカタパルトは、三年前、三菱に発
注されたことがあったが、基礎実験のときに大破して失
敗におわった、いわくつきの装置で、もしも成功したら
大いに萱場の名をあげることができる。受注金額は一基
七万円、搭載艦は巡洋艦五十鈴、射出する飛行機は当時
最高速を誇っていたハインケル水上戦闘機四五〇馬力、
重量一・五ノであった。成功後は、さらに三基を発注す
るとの内約もあり、当時、五名をかぞえた、萱場の設計
陣は、横索の成功で自信をつけ、この世界的な難物に取
組んだ。
カタパルトは、萱場に発注される三~四年前すでに米
英、伊の海軍が実用化に成功し、日本海軍も必死の情報
収集により、望遠写真や組立図を入手、それをもとに三
菱へ試作品が発注されたわけである。ところが前記のと
おり、三菱製品は大正十四年、呉工廠で基礎実験中、強度
計算の誤りから、爆発して一頓座したのち、同十五年五
月、こんどは呉工廠に対し空気式カタパルト試作が命ぜ
られ、つづいて翌昭和二年、発条油圧式が萱場製作所へ
発注されたのだった。とくに、このむずかしい製品で萱
場が選ばれたのは、やはり大正末年、彼が海軍在職中発
条油圧式、液圧空気式、火薬式の三種頬について、独自
のカタパルト案を当局に提案していたからであり、横索
の成功をみとどけたうえ、彼の天才に望みを託したもの
と思われる。
従ってラフな設計案は、すでに萱場の構想の中にあり、
これを当時の設計陣が昼夜を分たず具体化に専念し工場
が全力をあげて製作に当たり、昭和三年七月なかば、よう
やく雄大な全容を第二工場内に横たえることになった。
完成したカタパルトは長さ一二㍍、重さ六トン、加速距離
一〇㍍、五馬力の直流モーターを三分間回転して発条に
勢力を蓄え、一・五トンの飛行機を三ノの力で一秒間引っ
張り、二〇㍍/秒-すなわち毎時七二㌔の速度で射ち出
すシステムであった。完成したカタパルトは、部分的な
手直しを受けながら、工場内でダミーを使用し六九回も
の射出実験を行なったが、何んらの故障もおこらず、発
射ダミーはつねに前方八㍍のところでピタリと正確に停
止した。かくて、同年八月十七日、海軍航空本部長山本
英輔(当時中将、のち大将、連合艦隊司令長官)臨席のも
とに「受領式」が行なわれたが、その席上、山本は「昨
年できたばかりの、いわば町工場の萱場製作所に、海軍
でもまだできないカタパルトを注文したが、正直なとこ
ろ成功するとは思わなかった。然るに今日、見事に完成
し、三回の射出実験を見て喜びに堪えない。安心して受領
する」とあいさつし、葉巻五〇本を萱場に贈った。
これと前後して二つの小製品が加わってくる。その一
つは落下傘着脱金具であり、もう一つは信号拳銃だった。
昭和三年二月、海軍監督官を通じ、藤倉ゴムから理想的
な落下傘の人体着脱金具を考案してもらいたいという依
頼が舞い込んできた。当時、藤倉は海軍唯一の
落下傘製造工場で、着脱金具部分については英国品の特
許を買って自社製造していた。ところが、その機構が
悪いのか製造方法が良くないのか、たびたび閉らかなか
ったり、着地しても人体からすぐに外れず、強風に
引っ張られて兵員の怪我が続出する有様で、海軍から強
く金具部分の改善を要求されていたのである。飛行機の
緩衝脚やカタパルトにくらぺたら、おもちゃのような仕
事だったが、一個二〇円で一〇〇個分を納入、二〇〇〇
円の売上げとなったのは、初期の企業経営にとって、そ
れなりのプラスだった。この機構も横索制動同様、今日
なおそのまま各国で使用されている。
(中略)
陸上空母K装置の着想
世界大恐慌の嵐がふきまくる昭和五年六月、萱場製作
所は陸軍航空本部の指定工場となった。大正十四年以
来、海軍機にのみ使用されていた、油圧緩衝脚が昭和五
年四月、ようやく極秘兵器扱いを解除され、陸軍機にも
採用されることになったからである。
これはたしかに朗報だったが、一方では海軍調達当局
との疎遠という芳しからぬ事態を随伴した。横索油圧制
動関係では、新造空母の「竜驤」に呉工廠電気部製の電
気式制動装置がつけられることになったし、その後に建
造される空母には横須賀工廠製の萱場式改良型が採用
されることになっていた。また、心血を注いだカタパ
ルトにおいても、すべて呉工廠式が予定され、肝心の
開発者たる萱場は、すべてにわたってお情けの部品
注文を受けるだけの立場におち入った。結局こうなった
のも、当初の試作品、完成品だけに力を注ぎ、その後の
フォローアップが足りなかったことと、拳銃事件の処罰
以来、所長の萱場はじめ幹部が海軍との連絡、折衝を敬
遠したことが主因であったと思われる。
もちろん、この間全く海軍との縁が切れたわけではな
い。やはり、手に余るむずかしい技術が出現すると、い
かに疎遠になったとほいえ、調達当局は萱場の名を思い
出さざるを得なかったのである。その端的な例がCCギ
ヤであった。
日本海軍は戦闘機用の七・七ミリ固定機銃を昭和のはじ
めまで弾丸とも英国ピッカース社から輸入していた。こ
の固定機銃は機首のエンジンの上に左右二門すえつけら
れ、操縦梓についている発射レバーを引くと、圧力をか
けてある細長い油圧管を介して、瞬間的な油圧伝導で二
門の引金を引かせ発射する仕組みである。しかし、この
ままでは、高速回転のプロペラを直撃貫通するので、プ
ロベラの二枚の羽根が銃口の前にきたとき、瞬間的に撃
鉄をおさえて発射を止める複雑な油圧機構がついてい
る。これをCCギヤと呼んでいた。
この固定機銃システムは昭和三年、呉工廠がピッカー
スから技術導入し、直ちに国産化へむかったが、この複
雑精巧な油圧機構をつくれるのは萱場以外にないーとい
ぅことになり、昭和五年から同十一年まで約二〇〇〇組
を納入した。ところが、いざ飛行機にこのシステムを取
りつけてみると、たびたびプロペラを貫通する事故がお
こった。戦闘機の速度が高まり、旋回時の遠心力が大き
く、弾倉や英項直前の弾丸に加速度がつくためであった。
そナ」でさらに、CCギヤを機体にとりつける前に機銃
と共に正しく調整する機械が必要となり、ここに萱場式
機銃同調発射調整機が生まれてくる。
このほか、大砲の照準を定める測距儀の防震装置と
か、航空ジャッキなどもこの時代の試作品で、後者は今
日なお萱場製品の中に生きつづけている。
しかし、こういう小さな試作品だけでは、百名近い従
業員をかかえジリ貧のほかないところへ追いつめられ
た。他人の後始末では大したメリットも望めないのであ
る。そこで、本来の創作欲がむくむくと湧きおこってき
た。大正末年以来、空母の蟻装やカタパルトの試作に携わ
り、それらの着想を総合して陸上に応用すべきという考
えを、今こそ具体化すべきときであった。空母の設計を
離れて五年、忘れがたい郷愁が、陸卜垂母という形でひ
らめいたといえるかも知れないし、せまい国土で、将来
にわたっても、小さな面積で飛行場機能を卑号せるシス
テムが日本にほ絶対不可欠との見通しも決して間違って
はいなかった。離陸にはカタパルトの原理を応用し、着陸
には空母の横索制動を利用し、滑走路、誘導路には直ち
に敷設できる、さまざまな油圧担倒装置が浮かびあがっ
てくるのである。
苦しい中をこの研究に没頭した萱場は約一年ののち成
案を得た。着陸時陸上制動装置をKX、短距離離陸装置
をKY、地面応急敷設器材をKZと名付け、概略計算、
設計も終え、簡単な説明書もつけて特許を出願した。昭
和六年はじめ、赤城艦長から海軍航空本部技術部長に転
じた少将山本五十六を訪ねて久しぶりに海軍省の門をく
ぐつたのは、その年の秋口である。すでにそのころ、山
本の名は少壮戦略家として部内に知られており、この人
に納得してもらえば、調達当局への影響力も大きいと考
えられたからである。たしかに山本は熱心に萱場の説明
を聞き、専門的な質問もしたが……。
「非常に面白い着想ではある。しかし海軍としては、別
の戦略構想があって、この上とも空母の方に力を入れて
いく考えで、当面予算獲得に力を注いでいる。陸上のこ
とはやはり陸軍航空本部に話した方がよい。私の知人で
ある二部長の安田少将を紹介しょう」といって、すぐさ
ま名刺に紹介状を書いてくれた。
このできごとが、萱場製作所を一段と高いところへ押
し上げるテコの役割りを果たすことになった。山本の名
刺をもって陸軍航空本部に第二部長の少将安田武雄を訪
れたのほ、その年の十月某日である。このとき、安田の
決断は素早く、萱場の説明を聞くやいなや「よしわかっ
た。陸軍航本の極秘研究事項として採り上げることにし
ょう」といってくれた。
このKX・KY・KZこそ、個人企業萱場製作所を株
式会社へ押し上げる最大の要因となったものである。
第一章 株式会社。萱場製作所の発足
K装置に飛びつく陸軍
個人経営の町工場が、中堅の軍需工場に成長するキッ
カケとなった「陸上移動空母K装置」は数多い武器、装
備の中でも〝不思議″な存在だった。海の空母が多くの
飛行機を搭載し、海上を自由に航走しながら、適時、適
所に発進させて陸上あるいは艦隊、商船を攻撃するのに
対し、陸上空母はⅩⅩ(陸上移動横索制動装置)KY(陸
上移動飛行機射出装置)KZ(応急滑走路敷設器材)を
トラッグ、トラグタで急速に輸送し、短時日のうちに、
適所にインスタント航空基地を設営させようとするもの
である。これには大体三〇〇平方㍍ほどの平坦地があれ
ばよく、簡易地ならしをしてKZを敷設し、これにKX、
KYを取りつければ直ちに飛行機がとび立てるというも
ので、畑、日、森林の一部、山岳の陰、砂浜、河川敷、
離島などを簡単に基地とすることができる。
戦略的には敵軍の思いもよらぬ所へ、隠密裡に、いく
つかの航空基地を設営しておき、奇襲、制空権下の有利
な攻撃を可能にするものであった。もちろん、陸軍はた
んなる思いつきで、この〝陸上空母″構想にとびついた
わけではない。〝満州事変″を経て中国の東北地方が国
防の第一線に登場してくるや、陸軍の眼はより具体的
に、国境を接するソ連軍に注がれることになった。冬期
には全く雪と氷に閉ざされてしまう滿ソ国境の地形こ
そ、陸上空母の利用にはまたとない、好条件を提供する
ものである。
この新兵器は航空本部はもとより、当時の参謀本部作
戦課長石原莞爾(大佐、十年からは作戟部長、少将)の
抱懐する戦略思想にも合致するもので作戦当局の全面的
な支持が与えられた。石原は終始「日本陸軍の全兵力
は、あげて滿ソ国境の防衛に専心」を主張しており、機
動的な陸上空母は最適の兵器として重要視されたのであ
る。昭和八年一月には従来の海軍出身顧問(当時は小倉
嘉明中将-藤永田造船社長)に加え、元飛行連隊長横山
虎四郎(陸軍小将)を迎え、いよいよ陸海軍のお抱え工
場的な色彩を強めていく。ところが、陸軍が熱望する正
装置を本格的に製作しょうとすれば、西応寺の小さな三
工場ではとても合理的な生産体制をとれないのがなやみ
だった。
(以後略す)
(了)
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