3月26日午後1時に「お花見ウオーク」はJR市ヶ谷駅から出発した。
管理人が、防衛省正門前で説明。
「防衛省」「佐内門」「薬王寺門」の揮毫は久間章生初代防衛大臣。
徳川御三家屋敷図
京都兵学寮が張徳川家上屋敷跡に移転「陸軍士官学校」として明治7年創立した。
明治10年 陸軍参謀本部作成図
明治30年 東京一目新図
陸軍士官学校の看板(市ヶ谷記念館展示)
市ヶ谷陸軍官衛要図
大本営陸軍部の看板(市ヶ谷記念館展示)
「畏くも大元帥陛下には丗日大東亜戦下初の陸軍大學行幸の御帰途大本営陸軍部に御立寄り遊ばされ戦争完徹に参画する諸官を親しく励はされた」【注】陸軍大学は、現在の港区立青山中学校。
陸軍士官学校一号館(市ヶ谷記念館展示写真)
時計台下の徽章(市ヶ谷記念館展示)
大本営陸軍部・陸軍省・教育総監部配置図(市ヶ谷記念館展示)
大会議室が東京裁判法廷となった。「陸軍大臣室」が陸上自衛隊東部方面総監室となり、三島由紀夫はここで割腹自決した。「便殿」は天皇のお休み処。
「大本営地下壕」への入口が示されている。
三船敏郎扮する阿南惟機陸軍大臣は、玉音放送後に永田町の自宅で自決した。遺体は市ヶ谷台で荼毘に付した。
防衛省メモリアルゾーン「阿南惟機荼毘の碑」
映画ロケは一号館で行われた。
薬王寺町の長老は、大本営から一週間近く書類を燃やす煙が見えたと語っていた。
東京埋蔵文化財センターによって尾張徳川家埋蔵文化財調査が行われたが、焼却された機密文書の一部が出土した事を毎日新聞社吉永磨美記者が暴露した。
防衛研究所は「市ヶ谷史料」として一般公開をしている。
blog記事『焼け残った大本営機密文書(市ヶ谷台史料)』
これまでのblog記事
>本日は人骨の会(軍医学校跡地から発見された人骨問題を究明する会)主催の「お花見ウオーク」<
(続く)