葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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原爆症第一号「幻のカルテ」が発見〈移動劇團櫻隊女優仲みどり〉

2013年08月04日 | ヒロシマ・ナガサキ・ビキニ

『1945年8月6日、広島で被爆し、世界で初めて「原子爆弾症」と診断された女優、仲みどりさん(享年36)のカルテの一部などの診療記録が見つかった。戦後、行方不明になり、「幻のカルテ」として研究者が捜していた。被爆時の様子や18日後に亡くなるまでの様子が詳細に記されていた。 』 と今朝の朝日新聞が一面トップにスクープした。

ガイドブック『葵から菊へ』松田修次・長谷川順一共著(2002年11月23日第四刷・絶版)に、移動劇團「櫻隊」の女優森下彰子さんの叙述がある。

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鎮魂1 東京監獄・市ヶ谷刑務所(略)
鎮魂2 櫻隊全滅
  もうひとつ、平和を語る上で忘れられない歴史がある。櫻隊の隊員で新宿区荒木町に生まれた森下彰子についてふれておこう…。
  櫻隊については、読者の皆さんもご存じだと思いますが、戦時下の丸山定夫率いる移動劇團で興行のため広島に向かい被爆した。)『櫻隊全滅 ある劇団の原爆殉難記』(江津萩枝著)の記述にによれば、隊員の一人で四谷荒木町に出生、成女学園に在学していた森下彰子が紹介されている。

森下彰子の詳細
  一九二二年(大十一)年三月当時の四谷区荒木町に出生、一人娘として育つ、成女学園に在学中に父親の反対を押し切って、映画会社「日活」に応募して入社、映画女優としての道を歩き始めた。役がつきはじめた頃、戦時統制令で映画の製作もガタガタに減ってきた中で、森下は苦楽座の第二回公演一九四三(昭十八)年六月、丸ノ内の邦楽座)に参加。演目は『文吾きたる』に娘道子役で出演している。なぜかその後は第三、第四回公演、さらに一九四五(昭二〇)年の移動劇團の結成時の名簿、神奈川・広島県下の移動巡演活動にも参加していないのに、櫻隊最後の活動となった山陰地方の移動巡演には羽原と共に参加して、帰寮後も次の活動に備えて寮にいて被爆した。と記されている。
  森下彰子の家庭には自宅に舞台があり、幼児から仕舞を身につけて、しつけのよいきりっとしたところのある娘さんであり、  「岡田嘉子の若い頃のプロフィール」を想起させる感じのよい女優さんだったと紹介されている。

(尚、藤本恵子著、小説丸山定夫「築地にひびく銅鑼」によれば座長の丸山定夫も長く四谷に住んでいたと記されている。)

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鎌倉市妙隆寺境内に彫刻家本郷新氏が制作した丸山定夫のレリーフがある。傷んできたので修復をしたので除幕式を行いたいが、地元には司会をする人が見当たらないのでとプロジュースをした鎌倉市在住のA・C子さんからの依頼があった。A・C子さんは都立日比谷高校定時制(現在は全日制のみ)演劇部で、管理人が演出をした「夜の来訪者」のバーリング家夫人シビル役を、高校一年生ながら名演技だった後輩である。1998年8月27日妙隆寺で除幕式が行われたときの画像である。

Kamakura1

櫻隊全滅 ある劇団の原爆殉難記』の著者故江津萩枝さんと、彫刻家本郷新氏のご子息俳優の故本郷淳氏。

Kamakura2

挨拶をする鎌倉市在住の故井上ひさし氏。日傘をさしているのは俳優故矢野宣氏。
Kamakura3

左は浅野千栄子さんと司会をする管理人。

 

 

 

 

 

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