葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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ベルリン・ミッテ区の「少女像は芸術作品ではなく政治的主張を表しており」河村たかし名古屋市長

2020年11月07日 | 憲法・平和・人権・防衛

『>像は芸術作品ではなく政治的主張を表しており< 長崎市の北村西望が制作した「平和の像」は「政治的主張」をしていないのでしょうか。本郷新が制作した「わだつみの像」は「政治的主張」をしていないのでしょうか。』とFacebookに河村たかし名古屋市長を批判する投稿をしましたら、『ピカの「ゲルニカ」も芸術作品ではなくて、政治的主張ですか。名古屋で生まれそだった ものとして、貴方の振る舞いははずかしい限りです。』とのレスポンスがありましたが、「ゲルニカ」は1937年パリ万博のスペイン館に展示された壁画がです。銅像をはじめ彫刻、洋画、日本画など美術作品に込められた有名・無名の芸術家の思想は様々ですが、それを「政治的主張」と卑下し、切り捨てる首長らには美術、芸術を語る資格はありません。「少女像」は、全世界の戦時性暴力被害者へのメッセージであると考えています。

東武美術館・朝日新聞社刊「ピカソ 愛と苦悩ーーゲルニカへの道」から

「 日本にとり、ピカソの<ゲルニカ>は特別な意味合いを持つものと思われます。スペイン内戦でバスク地方の小都市ゲルニカが被った受難の記憶を呼び起こすことは、コヴェントリー、ワルシャワ、ドレスデン、そして広島、長崎と、第二次世界大戦で破壊された他の都市に思いを馳せることにほかなりません。そして、<ゲルニカ>は、民間の戦争犠牲者を象徴するものとして、今日に至るまで証言し続けてきました。この作品は普遍的な次元に到達したのです。」1995年10月 ジェラール・レニエ パリ、ピカソ美術館館長のメッセージ(抜粋)

世田谷区立美術館前の「わだつみの像」

東京の四大母子像」(管理人が付けました。)

上野公園内の海老名香葉子さんが寄贈した「時忘れじの塔」

東京大空襲戦災資料センター「戦火の下で」

浅草寺境内の「母子地蔵」(漫画家ちばてつや氏作)

靖国神社遊就館前広場の「母の像」

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名古屋市長河村たかし書簡

令和2年 11 月5日
ミッテ区 フォン・ダッセル・ミッテ区長
名古屋市長
はじめまして。
突然お手紙を差し上げます失礼をお許しください。
私は、日本の愛知県名古屋市の市長を務める河村たかしと申します。(略)さて、この度お手紙を差し上げたのは、ベルリン市ミッテ区に設置されたいわゆる「平和の像」は芸術作品ではなく政治的主張を表しており、このまま設置されれば日独友好関係に大きな損害となることを伝えるためです。ミッテ区は正しい理由をもとに像の撤去要請を下したにも関わらず、その後方針を撤回したことは非常に残念です。(略)

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吉住健一新宿区長がミッテ区長への書簡は「特定国を対象として戦争犯罪を表す像」と批判しています。

ベルリン市ミッテ区「少女像」への新宿区長の書簡は「犬笛」である

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管理人は金沢市に転居する際、銅像写真集「偉人の俤」(復刻版は二分冊)を靖国神社偕行文庫室に寄贈しました。この写真集には『各界代表的人物の記念像・記念碑700余点を収録。政治家、軍人、軍事探偵、実業家、学者・教育家、医業界の人、各種教育家、小学校長、殉職訓導、俳人・文人、産業開発者、発明家、社会事業家、美術家、飛行家、地方政治家、地方的功労者、女流名家、神官、僧侶、能楽と梨園、侠客、従者、外人等々。』と神武天皇像、日本尊命像、北白川宮能久親王像があるように天皇・皇族崇拝の「政治的主張」ばかりです。

金沢市兼六園内の日本武尊の像(日本で初めての西洋式銅像として富山県高岡市で鋳造された。靖国神社境内の大村益次郎銅像は生きていた人物の銅像としては初めて西洋式銅像として東京砲兵工廠で鋳造された。作者は著名な大熊氏廣。)

戦前の大村益次郎銅像(弓矢の鉄柵と大砲八門中六門は金属供出となった。)

靖国神社付属地に建立されていた川上操六陸軍大将銅像(金属供出となったので空き地。)

同じ場所の「品川弥二郎銅像」(子爵だったから金属供出を免れたか?)

皇居外苑の「楠公銅像」(東京の戦争遺跡を歩く会主催「東京駅と皇居東御苑を歩く」の写真。青い小旗が管理人。)

北の丸公園内の「北白川宮能久親王銅像」

上野公園内の「小松宮彰仁親王銅像」

戦後、GHQと内務・文部両次官名で出された共同通牒により1946~48年までに「超国家主義的、軍国主義的な記念碑と像」で撤去された記念碑は5,613、像は354にもなりました。東京都の「忠魂碑銅像撤去審査委員会」は半歳にわたる審査ののち有名銅像、記念碑など20基の適否を決定しました。国鉄万世橋駅(当時)前広場の「廣瀬武夫と杉野孫七の銅像」は「撤去第一号」として新聞報道もされ、撤去後は川口市の鋳物工場で溶解されたそうです。靖国神社境内の富国徴兵保険相互会社献納の大灯篭レリーフは、ベニヤ板を貼りその上にコンクリートで塞ぎました。サンフランシスコ平和条約締結後に、コンクリートを剝がして復原しました。

靖国神社ガイドの説明パネル。

大灯篭レリーフ「旅順港閉塞作戦」

白くなっているコンクリート痕

アメリカ国内では黒人差別問題に端を発して「南部連合」の記念像を撤去する議論があり、ヨーロッパでも同じような動きが始まっています。『「差別」か「歴史」か。「南部連合」シンボル巡り高まる議論

(了)

  

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