カッキーYAMA   akihiko tange

手始めに、日常的なことを気の向いたときに載せていくつもり。

今日も雨・14Dec2010

2010-12-14 | エッセイ
昨日(12月13日)、フリーソフトCADをダウンロードした。出てきたものをとりあえずダウンロードしたのでZWcadというのにしたのだが、これが奇妙なパソコンの動きであった。ダウンロードのボタンをクリックすると、名前、電話番号、アドレス、住所(県名まで)などを入力しないと始まらないらしいのであった。これに記入し、さてダウンロードのボタンをクリックすると、全く画面が固まって動かなくなってしまうのだった。完全なフリーズ状態であった。意味のつながらない漢字が使ってある部分もあったから中国のサイトだと思う(私は個人的に中国人は好きである。かつて、外国のチャイナタウンでも短い時間ではあるが良い友人ができたりした。)。しばらく見ていたがやはり動かないので画面を閉じ、別の作業をした。ふと思い出しすぐにまた同じ手順を踏んでいくと、今度は先程の個人情報を入力しないでも、ダウンロードスイッチが表示されるのだった。どうしてこうなるのだろう? それでは最初の個人情報記入は必要なかったのではないか? その後は何度やっても、個人情報記入はなくて、ダウンロード画面が出る。これが正解なのではないか。ちなみにソフトの発信元はダウンロード前に出るものの発行元はダウンロード後も不明なままだ。デジタル署名もない。こういうことはよくあることなのだろうか。簡単に製作者や発行者の側で記入できるはずなのになぜ未記入のままなのだろうか。
 最近、個人情報を何らかの方法で記入させるサイト(主に企業側)がそれらを悪用して事件になるケースが多いと聞く。それらの情報をもとに別のアドレスから迷惑なスパムメールを送るのも立派な嫌がらせだ。断りのメールを逆に返信するのはよくない、などというアドバイスも善良な人たちの間で交わされているようだが、まともな人間が返信するだけで大変なことになるようなやり方そのものがそもそも狂っているのだ。コンピューターで大量に送りつけている場合もあるらしいから聞く耳を持たない者と同じなのだが、止めるように言っても何度も送りつけてくるようなら、警察に言っていってもよいと思う。もちろんスパムの内容など状況にもよると思うけれど。私もそういう目に合ったことがあり、そういう意見をネット上に書いたことがある。丁度その頃、警察が悪質なインターネットの犯罪行為について捜査に入る、ということが新聞紙上に出て、多くの人が私と同じように迷惑な被害に合っているのだなと思った。何万回も迷惑メールを送られてやっと警察へ通報したという人もいるらしいが、私は数回でも怒る。
 警察がインターネット上の捜査に頻繁に入ることは、通信の秘密や表現の自由などに多くの不具合を生じる可能性があり控えられたに越したことはないとは思うが、そういった意味でもインターネット上の犯罪行為は重い。インターネットは楽しく使いたいものだと思う。
 CADのダウンロードの時の個人情報の記入はその後の手順を思うといったい、何のためだったのだろう? 見てみると良質な企業のようだが少し不審感が残った。

                                                                                                                                                                                                                                                                
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アンテナのことなど・今日は雨・13Dec2010

2010-12-13 | エッセイ
                                                                         

                            
                                                        風捕獲器   鹿島出版会 現代建築学から抜粋


ある秋の、天気の良い日にアンテナを高々と掲げたのである。ことさら威張るほどのことでもないが、アルミの針金で苦労して固定し、青空に、反旗を翻すがごとく、ではないか、差し揚げられたのであった。少しでも苦労して上手くいくと何か言いたくなるのである。しかし、青空に映え美しかった、などと言っていてはならぬ。ただのアンテナの話だ。家のあるエリアは、数十年に渡り長らく共同アンテナを使用していたのだが、全国的に地上波デジタルに切り替わるということで、受信方法は色々な方法が取れそうに思え少し迷ったけれど、もうアンテナを付けてしまえば、とにかく他に間に入る者が無くて直接受けられ、仕組みも単純簡単、値段も総合的に高くはならないだろうと見て高々と差し揚げることとなったのであった。それで業者に頼めばいいところを量販店で「八木アンテナ、ナントカ素子ナン本、バツグン、バッチリ、エリア問わずどこでもナントカ・・・」などと大書された広告の立ち並ぶ中、しばらく迷った末にアンテナ購入。八木アンテナは懐かしい。もちろん日本が世界に誇る今でも極めて有効なスタイルのアンテナだ。家の近所でも、光などの大容量有線で家庭に入れているランニングコストダイジョブ派を除き、ひょろりと細長く屋根の上に掲げた家が多くなった。そのアンテナは、アンテナが無ければすっきりしたと見るタイプのスッキリ街並み派を目指す向きからは、電柱などと並んで街並みを壊すものと受け取られるかもしれない。だが私は、電柱とはボリューム、仕組み、働き、などなどが全く違うし美観的にも全く別物だろうと独善的判断をしたのだった。若干、無い方がスッキリ見えるという観点からだけならそちらのほうが美観的には良いかなとも思ったりしたのだが、そんなとき、パキスタン、ハイデラバードのあの風捕獲器(バーナード・ルドフスキー著。「驚異の工匠たち」)のことが頭に浮かんだ。あの原風景。そこに生まれ育った人にとってのあのそれぞれの家から突き出た煙突の様なものが立ち並ぶ風景。それに対してヒョロリとした極めて今風にアレンジされたと言える「工業製品!」としてのアンテナ。それはどこかヒョウキンで可愛くもある。風と電波という捕獲するものの違いが今という現代を象徴しているかのようだ。それらの風景がダブって見えてくるのだった。
 
 バーナード・ルドフスキーの「建築家なしの建築」、これは自分の嗜好からしても当然、持っているものと思い込んでいたのだが、当時、読むだけは読んだが図書館などから借りてのことだったらしく本棚などどこを探しても見当たらないのだった。あの名著を持っていないのだ。oh! 不熱心さの表れかもしれないけれど、まあいい。

                
                                                 

                        
                                                                                     
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鎌倉鶴岡八幡宮11DEC2010

2010-12-11 | エッセイ

■今、足が向いて鶴岡八幡宮へやって来た。
風が少しあるものの暖かい。
倒れて話題となったイチョウには、黄緑色の葉が付いている。
訪れている人々も多い。
八幡宮鳥居

若宮大路

やはり、若宮大路
うなぎ屋









                                                                                     
                                                                                                              

◆追加でフォト、動画を掲載しました。12Dec2010


































                                                                                            






                                                                                                               

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10Dec2010という一日。

2010-12-10 | エッセイ

今日は病院へ行った。吸血(採血)検査であった。注射器1本、血を採られた。笑。そして年賀状書きに精を出すのだった。

年賀はがき。今年販売の薄緑色は去年の薄緑色よりも色が薄い。私は去年のものぐらいの濃さが良いように思う。

チャパティーとはインドでの食事の時に欠かせない主食である。日本でいえば、ご飯のようなものである。日本の高級レストランへ行くと、高級パンの様なナンが出たり、チャパティーといっても上品な味のものが多い。インドだとほんとに庶民の中に溶け込んだ食べ物でその辺の屋台でも気軽にカレーを包んで出してくれる。パサパサしてなにか安い粉を練ったものだな、と思うことも多いが、それが野趣があってなかなか旨いものなのである。

つまりはこういうことだ。都市の建物が超高層化していくとして次に建て替える時、もっと高くするのか?という問いかけなのである。そういうベクトル、そういうモチベーションはその時代にあるのか?ということである。1つだけそういった建物を作るか、ということではなくて、その共同体が全体としてそういう志向を持つか?持ちうるか?ということである。持つと良いということではもちろん、ない。
それを意外と大きな問題だと見る人となら話はできるかもしれない。

私の持っているケータイは、「うかんむり」と入力するとなんと、「宀」と変換され表示される。それで、「にんべん」といれてみたら「にんべん」のまま動かないのだった。なんで、うかんむりだけ?・・・、それで何に使う?・・・。

「海老蔵」の言葉、文字がメディアでおどっている。「海老蔵」(えびぞう)という言葉をラジオなどで聴くと、どうしても「海老反り」(えびぞり)という言葉が並行して頭に浮かんでしまう。



                                          

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新田次郎「八甲田山死の彷徨」

2010-12-08 | エッセイ

秋とくれば読書週間だといわれる。その秋も過ぎ去り、早、冬の師走へ移る今頃、やっとのことで1冊の本を読み終えた。1ヶ月余りもかかってしまったのである。どうしてか分からないが途中から進まなくなったのであった。よくあることである。こちらの持続性の欠如かもしれない。題名は、新田次郎の「八甲田山死の彷徨」である。昔、少し眺めた程度でそのままだったのをここへきてまじめに了読したつもりなのだが、果たして最後の方は飛び飛びの極めていい加減な不真面目な読み方となった。読む前に何となくストーリーが分かるのだった。扱っている内容は重いものだと思うのだが、なぜかそういう感じに受け取ることができなかったのはたぶん作者の新田次郎の生来の明るさかもしれない。意外な感じもするが他の作品を読んだ印象もそんなだったと思う。新田次郎は自身も山登りをしたが、暗いと先入観で思われがちな山好きの人間が根っこの所で楽観的で明るい人が多いのと関係があるかもしれない。時代背景もそうだし、遭難の物語ということもあり、深刻で暗い話しのはずなのだが、どこか健康的なものを感じるのだった。いくら暗く書こうとしても作者の性質が出てしまうようで、またそうでなければウソだとも思う。読み終えて、寒いところへはあまり行きたくないなと思うのだった。

                                            
                                             


パソコンやケータイを使うようになった時に感じたこと、特に新鮮であった感覚などは直ぐに慣れて忘れてしまうものだ。その中の一つに日本語入力をするときに、ずらずらと同音異義語が出てきてその中から適当な言葉を選ぶという作業がある。これは初めて見た時、ダジャレのオンパレードではないか、と思ったものだ。これは、手書きの時はないことだった。人間の頭のファジーで凄いところは、同音異義語の中から言葉を選ぶという作業を経ずして、いきなり、その一文字が出てきてそれらを書き連ねていくということができるということなのだ。パソコンをやるようになって気づくことである。驚きである。アルファベットを使う言語圏の人たちにはパソコンを使うようになって以来発生するそういった違いはないから、これは日本で引き起こされる独特の状態ということである。ズラリと並ぶ意味の無関係な言葉を一時的にでも見ることは無意識のうちに余計なことが目に入ることでもあり、集中を欠くことになるのかもしれない。

・・・今回、私は大いに集中を欠いて逆に面白かった。
「八甲田山死の彷徨」は、道に迷って大惨事になったわけだから「八甲田山死の方向」。死の彷徨も怖いが死の方向もリアルで恐ろしい。生きて帰れぬ方向へ歩を進めるわけだ。oh!・・・ などと馬鹿なことを言っていてはならぬ・・・。が、先日、六本木でも変な「方向」へ行ってしまい、さすらって「六本木死の彷徨」をし、「ここはどこだ、どうやったら三田から抜け出せるのだ!???」と、最後に「六本木死の咆哮」をした・・・というような馬鹿な話に日本語圏パソコン使用者はなってしまうのである。同じ六本木の、こちらは居酒屋での話なのだが、ことさら緊張した面持ちの若きウェイトレスがいたことがあり、どうしたの???と訊くと、まだ日が浅く緊張しているんですと言った。怒ったような顔をしていたので、こちらが客として何か気付かずにおかしなことでもしているのかと思ったのだった。勤めはじめて間もないからだったのが分かってほっとしたのだが、これが奥のカウンターでアドバイスを受けつつ客へのサービスにこれ努め、テーブルの間を迷いつつあっちへ行きこっちへ来、「六本木死の奉公」の様相を呈するのだった。

これに類することで、今年の初めの頃に行った新潟でも、ある居酒屋で「新潟死の奉公」というのが発生したのだが、これは長くなるのであまり書かない。が、これもモデルにでもなりそうな20歳前後の新潟美女だったのだが(もうあまり覚えていない)、モデルにでもなりそうなだけあってなにしろ痩せている。これがやはりカウンター内の厳しいマスターの指導であれこれしつけをされ鍛えられつつテーブルを拭いたり品物を運んだりするわけで、その場の雰囲気が体育会系のノリになってしまうのだった。その時はお客が少なく私とその娘と1対1のような格好となり、それに追い打ちをかけるようにマスターの威勢のいい大きな指導の声が店に響き渡り、そこまでしなくてもいいのに「新潟死の奉公」。モデル歩きのはずがフラフラヒョロヒョロ歩きになって畳で滑り座布団でつまづき、息が上がり顔が上気し。大丈夫か?と訊いたら、ハイと答えつつも私のテーブルへ来て休憩し息を整える始末。日本酒の徳利を傾けようとする私は、その娘をかばう側へとまわるのだった。・・・長く書いてしまった・・・。あと、放校、芳香、砲口などはどなたかにお任せします。fu~っh!!


                                         
                                        


Marisa Monte




                                                                                                     
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最近の丹沢方面の景色・12月

2010-12-07 | エッセイ

カッキ―YAMA から見た丹沢方面の景色                                             


11月初め


数日前・夕焼け(この位置から丹沢は見えない)・12月


数日前・12月

                                                                                

一昨日、一つ隣の駅まで歩いた。昼間は暖かだったが夕方になって冷え込んだ。駅前に露店が出ていた。年賀状を売っていた。色の薄く入ったものを数十枚、買った。
今日、正確には既に昨日になるが、庭の剪定をした。1年間で伸び放題に伸びた枝を思い切ってバッサリと刈り込んだ。スカスカになって道路側から家が丸見えとなった。さっぱりしていい気分だ。今の時期に威勢よく刈り込んでいるのは、隣近所を眺めてみると家だけであった。

                                                                                


sade:ゆったりした感じが心地よい






                                             
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W杯やオリンピックなどについて

2010-12-05 | スポーツ
このところ、色々な世界的催しを外から呼んでこようという動きが特に政界やサービス産業界で活発なようだ。そんな中で、先頃、W杯の開催国が決まった。決まったのは2018年と2022年の開催で、それぞれロシア、カタールということである。どちらも初めての開催ということだそうだ。決まり方のプロセスには色々と疑問や憶測を差し挟む人たちもいるらしく、良くないことは表に出されかつ是正されるべきだとは思うが、なかなか見えにくく捉えどころのないこともありそうなのはいつものごとくだ。しかし、私のような一般のサッカーファンからするとそこまでは知り得ないし、そんなことよりもどこが開催国に決まるかという結果の方にまだしも興味があった。その点、どちらも初めての開催だし地域としても、片や今としては遠くなった昔の東側と言われていた時の大国、片や、第3世界と言われる、ついこの間までわが国ではほとんど認識の薄かった場所。石油という強力なものが偶然にも自然の恩恵から産出するものの、マスコミなどの報道は未だに極端に少ない第3世界の一小国。この2国に決まったのは良いことだと思う。初めてゆえの障害はあるかも?しれないが、とても新鮮だ。招致などとなると、オリンピックにしろWカップにしろ私たちの国は政治家と、後は、おそらくは利権を独り占めしたい大手広告宣伝興行会社が招致合戦に躍起になるのだろうが、こちらの様な一スポーツファン、サッカーファンにすれば、先の、たとえば石原慎太郎の様な一政治家や広告会社が色めき立ってくれても嬉しくもなんともない。若者や子供たちに夢をと言うのもどこか彼らが言うと偽善的ですらある。今やいろいろな新しい国が招致に名乗りを挙げるようになり、日本などが開催国に選ばれる確率は低くなっているのにまだ東京開催を夢の実現であるかのように叫ぶのは自分の狭い視野の政治活動の一環でしかないのではないか。諸外国は早くから旅客機などが安く気軽に利用できることもあって、言ってみれば人々は長距離バスの感覚で各国間を行き来してきたようで、ぜひともこれらの感覚に倣って、もうそうなりつつあるかもしれないが、これからは国の代表選手たちももっと海外へどんどん出て試合をすると良いと思うし、否応なくそうなっていくだろう。遠征先で勝利するためのノウハウなども早くから蓄積していくにこしたことはなく、とても良いことだと思う。文化交流にも力を入れることができるだろう。遠征先は完全なアウェイなのだが、何もアウェイ、ホームにこだわることも無い。これまでW杯などで勝利してきた国などは全試合アウェイで勝ち抜いているチームが多いわけだし、考えてみれば、招致国一国を除くほぼ全部の他の参加国は皆、アウェイで戦っているのだ。もっと気軽に海外で試合をするようになっていくとその国のことも知れて楽しい、と思う。


                                           


今日の1曲。音楽に詳しい私の友人もこの演奏に関してナベサダの調子がとても良さそう、と評していた。私もそう思う。

http://www.youtube.com/watch?v=wfCzEU3gzsw


                                           

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Frank Lloyd Wright 自由学園 明日館・30Nov2010

2010-12-01 | エッセイ





昨日、昼を少し廻った頃。晴れ。2時から係りの人の説明
があるということで、まだ訪問客はまばらだった。

内部空間をためつすがめつ観て歩いた。観るところがあり過ぎるように思った。
さすがに、いい雰囲気だと思った。






















講堂内観





簡単に感想だけ・・・
ホールとその一部2階、中間の高さの食堂は何度も行き来してしまった。変化を求めたであろう、少なく抑えたその段差を何度も。僕の印象ではWrightは、ホール部分にはこだわったに違いなかった。ホールの内部空間のプロポーションを考え、外観のプロポーションを見た時、おそらくエスキースをするWrightの手は、パンフレットにも書かれてあるように軒高を低く抑え気味にしながら形をとろうとする動き以外は、容易にはしなかっただろうと思う。全体として水平に広がった独特のスタイルがイメージされていたのだと思う。そこへ空間的変化を与えるホール内部の一部2階をどうしても差しはさみたいと思えばさらに天井は低く抑えられるのだが、この低さとホール吹き抜け部分の対照が、予想の範囲としてそこが狙い通りであったのだろう。その低い天井は諸々の諸条件から来ていると感じられて、気持ちが良かった。その諸条件とは他ならぬWrightの意思だ、と思う。




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