會津新選組 弐
會津と新選組の接点は浪士組として、幾多の分裂を重ね京都守護職会津藩「御預かり」となって壬生村に本拠を構え、「京都壬生浪士組」と称したことに始まる
文久の政変(會津と薩摩両藩が、長州力でなく長州藩を京都から追放)で会津藩の一員として出動し、その功により「新選組」の名を与えられた・・・
その後、近藤勇派と芹沢鴨派が対立…芹沢派が粛清され近藤勇を局長といて「誠」の下に華と咲き、華と散っていった・・・
一刀斎・・・作家浅田次郎の小説・・・斎藤一、最後まで生きた新選組の一番の寡黙な、暴れん坊将軍・・・言葉発するよりも、抜きがけの閃光一の達人…
山口次郎・斎藤一・一之瀬伝八・藤田五郎と名を変えてきたが…白河・母成・會津如来堂の戦いで、會津に最後まで忠誠を誓った新選組、三番隊長斎藤一…
上杉景勝が築城した神指城…完成を見ないままに破壊し米沢へ・・・まぼろしの神指城一郭の土塁址として今も残っている如来堂
激戦の地…如来堂・・・新選組の陣地になったところ・・・
殉難碑の裏側に碑文が・・・
斎藤一ら新選組が陣を構えるが、敵軍に発見され、包囲され猛攻撃を受け隊士が全滅したとされる場所である・・・
しかし、全滅するも、少なくとも7人の脱出が明らかになる・・・斎藤一もその一人であった・・・これが会津に名を残す新選組最後の戦いだった・・・
今もなお熱烈な新選組、斎藤一のファンの女性が、一人・二人・三人と・・・訪れている・・・如来様…合掌
七日町阿弥陀寺・・・斎藤一が眠っている
斎藤一(藤田五郎)の墓・・・維新後は斎藤五郎と称し、東京では警視庁や東京女子師範に努めたが大正四年七十一歳で病没した・・・
御三階…若松城本丸にあったもの・・・中の写真は會津中将松平容保公・・・斎藤一は、この人の恩義から「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と、會津に残る・・・土方は去って行った・・・
ちなみに、阿弥陀寺の本堂が戦火で焼失…その代役として買ってきて寺の敷地内に移築したもの・・・戊辰の戦争後官軍が競売にかけた・・・このほか、今は城の中にある茶室麟閣も競売にかけられ売られたが平成に入って買い戻されお城へ・・・お城も競売にかけられ二千五百円で落札(後日、若松城アップで)
阿弥陀寺から見た七日町界隈・・・手前が渋川問屋・・・この先に、今は銀行になっているが、長州の吉田松陰・肥後の宮部鼎蔵(池田屋で自刃)・土方歳三などが泊まった清水屋という旅館があった・・・
近藤・土方・沖田のような派手さはないが、白河・母成戦にも参加して、会津にもっともゆかりのある隊士であった・・・
おわり・・・