昨年に引き続き、セイジ・オザワ松本フェスティバルにやってきた。(プログラムは写真参照・・横着のお許しを乞う)
前半、グリーグ「ボルベアの時代より」は弦楽器(8-6-5-4-2)のみ、シュトラウス「13管楽器のための組曲」は管楽器のみ。
そして、後半に内田光子と小澤征爾の登場という寸法である。
前半はグリーグが印象に残った。どこまでも豊潤で瑞々しい響き。そして、一体感のあるフレーズと呼吸。まさに、桐朋学園の弦の美しさを堪能することができた。しかし、指揮台に小澤征爾がいたなら、たとえ座っているたけでも、随分違うものになっていただろう。
その点、外国人プイレヤー中心のシュトラウスの方は、弦楽器のような同じ釜の飯感のないのは致し方ないところ。
後半は、いよいよ内田光子を迎えてのベートーヴェン「第3協奏曲」。弦楽器は10-8 -6-4-3と増員されていた。
遅ればせながら、特急あずさの車中で読んだ村上春樹との対談集で知ったのだが、ベートーヴェン「3番」は、2010年にニューヨークで共演を予定されていながら小澤征爾の腰痛のため実現しなかったという曰わくのある作品。つまり、今宵、松本にて小澤征爾、内田光子、サイトウ・キネン・オーケストラによる同曲の公演が成就するという意味合いがあるのだ。
小澤征爾の指揮は、昨年の「第7交響曲」のように命を削りながら炎を燃やすでなく、もっとリラックスし、打ち解けたもの。第1楽章が終わってからのドリンク・タイムも僅かで、体力的にも余裕が感じられた。
称賛すべきは、そこに生まれるサウンドの透明感と軽やかさ。精自由な精神がさらに羽ばたいているのを感じた。
内田光子を生で聴くのは、恥ずかしながらザ・シンフォニーホールのオープン間もない頃の朝比奈&大阪フィルとのブラームス「第1協奏曲」以来というから、30数年ぶり。体調不良によるリサイタル・キャンセル直後だけに、どれほど彼女の本領が発揮されたかは分からないが、第1楽章のカデンツァあたりから何かが降りてきたように感じた。第2楽章冒頭の幽玄さも彼女ならではのものだろう。
総じて、昨年ほどの熱狂的な感激はなかったものの、心に爽やかな感動の残るコンサートであった。
しかし、しかし何か物足りない・・。と、しばし考えて思い当たったのは、小澤征爾の出番が短過ぎたということ。
寄席に出掛けて、主任(トリ)の小三治を、ほかの噺家を聞きながら待っていたような気分にも似ている。独演会のような密度と充足感に欠けていたのだ。
しかも、コンチェルトのみなので、小澤色が前面に出てくる場面が余りに少ない。あと序曲1曲でも振ってくれていたなら、満足度はさらに大きくなっていただろう。
公演2日目の10日は、もっと凄い演奏会となる気はするが、わたしは勿論来ない。その夕は、大阪クラシックの「水のいのち」に燃えていることであろう。
※今回は、S席が確保できず、二階後方の座席。バランスは悪くはないが、やや音は遠く、生々しさには欠けた。二階席前方で聴けたなら、もっと感動は大きかったのかも知れない。