あれきさんどりあにいく。
あめこみの店を見つける。
店のおやじさんが、昼飯に行くから12時に来て。
というので、街をぶらぶら散策。
クライストチャーチの博物館は外から見かけた。
古い町並みは、煉瓦の積み上げられたレキシ。
味のある街。
きんぐすとりーとには、トロリーバスが走り、キングストリートオールドタウン駅から川辺までの一本道を好きな時に好きなだけ乗れるストリート。
まじしゃんが、赤いボールを出したり消したりして、こどもをめくるめくめくらましのせかいへといざなう。
めのまえにあるはずのものを、みうしなうなよと、にやりとする、まじしゃん。
その通り。
今眼の前にあることを、見失わないよう。
あめこみの店は、いい感じに古びていて、れとろぽっぷであった。
3ドルくらいの、劇画を手に入れる。
人生の劇画をみつけよろこべる無邪気な君よ。読み解けよ、君。
それから、地下鉄イエローラインに乗り、一気に街中へ。
うなじに「妻」というタトゥーをした女の人と、腕に「神の恩寵」というかわいい日本語で書かれた若いにいさんに出会う。
なんだか、ちょっと、字面に救われた気がした。
その後、国立航空宇宙博物館に行く。
月の石 あながあくほどみるひとのいつかさわらん その地のほうを
あぽろにもH2にものりこんで そらはひろいし どこまでもいけ
戦時中の日本とアメリカの飛行機や艦船の被害状況のグラフを見つけた。
グラフには幾千幾百撃沈す 飛行機艦船乗りの数しれず
ひろしまとながさきのなきひとびとに いのりもくした 文字の中まで
それから、ふらりと何気なく、ハーシュボーン美術館と彫刻庭園へ歩く。
映像の重なりは、並行した時間の対話である。
イラン人女性作家の写真の展示、短編映像作品が上映されていた。
写真に収められた人々の顔や身体には、コーラン。
であろうか。
体中に書き込まれた呪文のようで、真っ直ぐ前を見る目は、その呪術性を担保にして、見つめ返す目。
短編映像を4、5本ほど立て続けに見た。
女性作家自身が、おそらくアメリカか欧米のどこかと、イランかイスラム圏のどこかに同じ黒ずくめの格好で生きているのだが、同時に映像を流すので、少しづつずれている。
どちらか一方を見るだけではないので、見る方は同時に上映されている別々の映像を右、左と交互に見続けなければならないが、面白い試みであり、どちらも同時に見たい衝動に駆られる。
これは、どちらかというと、神の目を持つような感覚であろうか。
彼女の千里眼が、向こうにいるはずの自分を見つめている時、向こうにいる自分が動き出すのだ。
なんという、イマジネーション。
共時的自動的イマジネーション。
彼女のその映像「生」感覚は、昔、イランに住んでいたこともある自分には、すこしだけ理解できた気がした。
私が生きているあの地で思う、祖国日本のもしかしてそこで生きていたかもしれない自分を、映像化してくれたようで、ふらりと立ち寄れたことは、奇跡ではなく、必然のような気もした。