愛知学院大学青木ゼミのブログ

愛知学院大学商学部青木ゼミの活動を報告するためのブログです。

大学

2015年04月01日 | Weblog
下の記事は昨年日経ビジネス・オンラインに掲載された小田嶋隆さんのコラムの抜粋です。大きな話題を呼びました。

産業界の要求を受けて,大学を,グローバル人材となるエリートを育てる難関大学(G型)と,活躍の場がローカルに留まる非エリートを育てるその他の大学(L型)に分けるべきだという政府の策動があります。非エリートのための大学では理論的学習や学問的研究はいらないといいます。それに対して,小田嶋さんが批判し,大学とはどういうところなのか示しています。新入生の皆さんは,これから大学生活で何をすべきなのか,小田嶋さんの指摘を受けて考えて欲しいと思います。

卒業後役立つ知識を授けるべきという意見にしたがって,ローカル人材を育てることを期待されている多くの私立大学は実学志向を強めています。うちの大学もその渦中にあります。役に立つ知識は必要ですが,だからといって,すぐに役に立つように見える知識,例えば,資格のための受験勉強や仕事上のknow-howのようなものを大学が学生に覚え込ませるばかりでは,大学の存在意義は失われます。そんなことは大学の外でいくらでもできます。やはり大学は,人がものごとを独立して考えることができるように訓練する場所なのです。非エリートのための大学でもそうです。長い目で見れば,その訓練が人の人生を充実させるのです。そのために,一見役に立たない学問を研究教育する必要があるのです。

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「劣った者がローカルにとどまり、優れた者がグローバルではばたく」という文科省の発想の前提は、そのまんま植民地商人の精神性そのものであり、大学を卒業した人間に「G」と「L」の焼き印を押して区別しようとする態度は、ほとんど奴隷商人のやりざまと言って良い。

エリート教育についてもひとこと言っておく。安倍さんは、裾野も山腹も無しに、頂上だけで山が作れると思っている。いや、安倍さんが何を考えているのか、本当のところはわからない。でも、こっちから見ていると、そう思っているように見える。そう見えてしまうところが、つまりは、あの人の教養の乏しさなのだと思う。

大学のキャンパスというのは、長い目でものを見ることのできる人間を育てる空間だったわけで、安倍さんはそこでしくじったから、大学を壊そうとしているのかもしれない。

建前論を言うなら、大学は、そもそも産業戦士を育成するための機関ではない。労働力商品の単価を上げるための放牧場でもない。 「じゃあ、何のための場所なんだ?」と尋ねられると、しばし口ごもってしまうわけなのだが、勇気を持って私の考えを言おう。

大学というのは、そこに通ったことを生涯思い出しながら暮らす人間が、その人生を幸福に生きて行くための方法を見つけ出すための場所だ。きれいごとだと言う人もいるだろう。が、われわれは、「夢」や「希望」や「きれいごと」のためにカネを支払っている。なにも、売られて行くためにワゴンに乗りにいくわけではない。

これは、森田真生さんという独立数学者がその「数学ブックトーク」というイベントの中で紹介していたお話の受け売りなのだが、安倍首相のためにあえて引用することにする。いまは、誰もが知り、誰もが使い、すべての産業の基礎を作り替えつつあるデジタルコンピュータは、20世紀の半ばより少し前の時代に、ごく限られた人間の頭の中で、純粋に理論的な存在として構想された、あくまでも理論的なマシンだった。「もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育」というところから最も遠く、実用と換金性において最弱の学問と見なされていた数理論理学(の研究者であったチューリングやノイマンの業績)の研究が、20世紀から21世紀の世界の前提をひっくり返す発明を産んだのである。

なんと、素敵な話ではないか。目先の実用性や、四半期単位の収益性や見返りを追いかける仕事は、株価に右往左往する経営者がやれば良いことだ。大学ならびに研究者の皆さんには、もっと志の高い、もっと社会のニーズから離れた、もっと夢のような学術研究に注力していただきたい。

採算は度外視して良い。大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。本人が通ったことを後悔していないのなら、その時点で採算はとれている。

(日経ビジネス・オンライン 2014年10月31日)
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