A国とB国の国境に、1本のリンゴの木が立っていました。周りは広い草原が広がっていたので、ひときわ高くて太い幹をもったリンゴの木は遠くからも目立ちました。ですから、あのリンゴの木までが自分の国で、木の向こう側が相手の国といったように、リンゴの木は国境の目印となる木として、両方の国から大切にされていました。
春にはリンゴの木の枝いっぱいに花が咲き、国境近くを通る人々は足を止めて、青い空を背景にした純白の花を見上げてはその美しさに見とれていました。夏は、涼しい木陰をつくってくれるので、両方の国の人々の休み場所となりました。秋は、たくさんの実をつけるので、リンゴ狩りにたくさんの人々が訪れ、収穫の喜びを味わいました。
リンゴの木が与えてくれる幸せを、両方の国の人々は分かち合いながら、仲良く暮らしていたのです。
このリンゴの木を、二つの国でそれぞれが自分のものだと主張するようになったらどうなるでしょう。島の所有を巡る中国や韓国との争いに重なる思いがあります。国境は、相手を排除する場所ではなく、両方の主権を認め合う場所。相互の国民が仲良くふれあう場所。そんな位置づけができないものでしょうか。漁場や地下資源をリンゴの木と同様にとらえることはできないものなのでしょうか。
人は、誰でも二つの祖国を持っています。自国と地球という祖国。その一方の地球人としての視点で、ものごとを考えることはできないものなのでしょうか。地球人には国境はありません。国籍や肌の色・人種にとらわれることなく 同じ人間としての連帯感と相互理解が根底にあります。この理念が共有されるならば、今世界で起こっている紛争や戦争、対立もなくなっていくのではないでしょうか。
一人がみんなとみんなが一人と世界中の人々の心が一つに結びつくような世界が、究極の理想社会なのかもしれません。少なくとも3.11の災害があった時の世界中の人々から寄せられた支援の手には、国境を超えた人間としてのあたたかい温もりと連帯感があふれていたのではないかと思います。中国や韓国の人々からもその温もりが寄せられていたのではなかったのでしょうか。
生ぬるい理想論であり夢物語かもしれませんが、現実に迎合するのではなく、現実を理想に近づけていく一歩の方が、はるかに価値があり尊い一歩なのではないかと思えるのです。