あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

戦没者追悼式での首相式辞

2013-08-16 18:52:44 | インポート

戦没者追悼式での安倍首相の式辞に対して疑問を感じました。歴代の首相が取り上げてきた戦中でのアジア諸国への加害責任について語らず、不戦の誓いにも触れませんでした。「歴史に対して謙虚に向き合い、学ぶべき教訓を深く胸に刻み」という一節を語りながら、その結果何を教訓にしたのかについては一言も触れませんでした。

政府主催の追悼式であるからこそ、諸外国に向けての日本のリーダーとしてのメッセージが発せられるものと期待していましたが、国内向けの内容でしかなかったようです。

韓国や中国との歴史認識や領土問題をめぐっての対立がある現状の中、新たな隣人外交をつくりだす契機としなかったことに、落胆の思いがあります。

個人としての歴史観を 首相としての歴史観として ごり押ししているような気がしてなりません。首相の言動は、日本の代表としての言動でもあります。であるからこそ、個人的な歴史観にとらわれず、さまざまな価値観や多様な歴史観を視野に入れた言動が求められるのではないかと思います。

今回の式辞の内容は、安倍首相が見直しを主導して作成されたとのこと。戦後50年に出された村山談話〈植民地支配と侵略への反省を示した〉に批判的な首相の考えが反映され、加害責任には触れない内容となったようです。また、集団的自衛権の行使を前提にした考えが、不戦の誓いを取り上げなかった理由ともなったのではないかと思います。

村山談話は、アジアとの平和外交を進めていく上での基本認識とも言えるもので、それを前提に未来志向の良好な隣人関係がつくられてきたように思います。そうして積み上げられてきたものを、狭小な歴史観を主張することで打ち壊してしまい、現在の険悪な中・韓関係を招いてしまったのではないでしょうか。

内向きに、私的に、愛国的になればなるほど、外との関係は閉ざされたものになってしまうのではないでしょうか。真に歴史と謙虚に向き合うのであれば、進むべき方向も違って見えてくるのではないかと思うのですが…。

過去の歴史の加害責任を認め、不戦の誓いを新たにする、この二つを柱にして外交努力を続けていくことこそ、今は必要とされているように思います。時の歯車を逆に回すことで、日本の未来はますます閉ざされてしまうのではないかと心配になってしまいます。

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長崎市長の平和宣言を読んで

2013-08-16 18:52:03 | インポート

宣言では、被爆国としての原点に返ることを日本政府に求めています。その主張には、現状における政府の歩む方向が被爆国としての原点を忘れていることを 強く批判する思いが込められているように感じました。

一つは、ジュネーブでの核不拡散条約〈NPT〉を検討する会議で、核兵器の非人道性を訴える署名に賛同しなかったこと。これは、核兵器の使用を状況によっては認めるという姿勢を日本政府が示したことになり、二度と世界の誰にも被爆の経験をさせないという、被爆国の原点に反することだと指摘しています。

もう一つは、NPTに加盟せず核保有したインドと、原子力協定交渉を再開したこと。これは核兵器を増やさないというNPTのルールを形骸化させる対応であり、NPTを脱退して核保有を目指す 北朝鮮などの動きを正当化させる口実になるという指摘です。

被爆国としての日本だからこそ、立たなければならない原点があり、その原点に沿ってリーダーシップを発揮するような対応が必要なのだと私も思います。

「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」という日本国憲法前文にある平和希求の理念の体現こそ、原点そのものなのではないかと思います。NPTによる核不拡散のルールが世界で共有され、核兵器はつくらず・もたず、この地球上から一掃されることで、軍事力に頼らない真の平和が実現されていくものと考えるからです。

今から68年前に、広島と長崎で何があり、どれだけ多くの命が一瞬にして奪われたのか。被曝された人々が原爆の後遺症でどんなに苦しく辛い生活を強いられてきたか。その事実の重みと長崎や広島の願いをしっかりと受け止め〈原点に立ち返り〉、すべての核兵器が廃絶され 真の平和な世界の実現されることを心から願います。

核兵器は、誰が何と言おうとも、絶対悪なのですから。

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