仙台演劇鑑賞会の8月例会が、前進座の「あなまどい」でした。
「あなまどい」とは、冬を前にした蛇が、晩秋になっても冬ごもりするための巣穴を見つけられずにいる様子を 意味するとのこと。
主人公は、上士である父を足軽:寺田金吾に殺されたため、仇討のために旅に出た息子:上遠野関蔵です。関蔵は、嫁いで間もない妻:喜代を残してひたすら金吾を追い続けます。金品を使い果たし、物乞いをしながらの 34年にも及ぶ過酷な仇討の旅でした。一方、残された妻は、病床にある義母の看病を続けながら夫の帰りを待ち続けます。関蔵に家督を預けられ、家族のことを託された叔父一家が、その約束を果たさなかったため、残された妻は経済的にも苦しい生活を余儀なくされますが、妻としての座を守り続けます。
34年後に仇討を終えた関蔵が、帰参します。その時の関蔵と喜代との再会の場面には、心を打たれ涙ぐんでしまいました。34年という時を経ての夫婦としての再会。その間のお互いの苦労を年老いたお互いの姿を見合いながら受け止め合う姿に、時を超えた夫婦の絆を感じました。
あなまどいは、34年という時の流れの前で お互いに安住の場所を見つけられずに迷い苦しみながらも歩んできた二人の人生を指しているかもしれないと思いました。
すべては、武士社会の持つ理不尽さがつくりだしたものでした。足軽は、上士と会えば平伏しなければならない。金吾は、病に苦しむ妻が平伏を求められたために医者に診せられずに死んだと思い、平伏を命じた 関蔵の父を切り捨ててしまいます。そのため関蔵は、父の仇討を果たすまで帰参できないという武士としての大義を守らなければならなかったのです。しかし、物乞いまでしながら後を追い続ける中で、仇討の虚しさを感じるようになります。30年後に、関蔵はついに金吾と再会することになります。しかし、二人は追う者・追われる者の立場を超えて、30年もの間 お互いに苦しみを抱きながら生きてきたことを認め合います。
劇の中では、願人坊主という人物が登場し、その出会いが関蔵の帰参と結びついてくるのですが、詳細は割愛します。関蔵は、金吾を討たず許したのです。持ち帰った首は、病で亡くなった願人坊主の首だったのです。
帰参した関蔵は、養子にした甥〈妻方の〉に上遠野家を託し、隠居して 妻の喜代と一緒に江戸に旅立ちます。その道すがら、妻には仇討の相手を許したことなど真実を告白します。妻は夫の心情を理解し、江戸で新たな二人の人生を生きていくことを改めて決意します。
あなまどい をしながら、冬ごもりの場所となり 終の住処となる江戸に 手を取り合って向かう二人の姿に、夫婦としての行く末の 心温まる在り方が 見えてくるような気がしました。
人は 何を求め どこに向かって 生きていくのか、あなまどいしながら 歩むのが人生なのかもしれません。同時に、よりそって生きることの意味や大切さを改めて考えさせられた 心に残る演劇でした。
次回の例会は、テアトル・エコーの「風と共に来たる」です。名作映画の「風と共に去りぬ」誕生にまつわるコメディということですが、どんな楽しい劇になるのか楽しみです。