詩人の吉野弘さんが、肺炎で87歳の生涯を閉じました。このブログでも、「夕焼け」や「奈々子に」といった詩を取り上げて紹介したことがありました。平易な言葉で人間の日常を紡ぎながら、人間としての在り方を深く問いかける詩人だったのではないかと思います。詩と向き合うことで、新たなものの見方や考え方を教えていただいたように感じています。
ご冥福を心よりお祈りしたいと思います。
改めて詩集を手に読み返してみると、たくさんの詩に立ち止まってしまいました。それだけ深く心に訴えかけてくるものがあったからです。ブログの中でこれからも印象に残った詩を紹介し、吉野さんが残してくれたものにふれることができたらと考えています。まずは、1編の詩を取り上げます。
雪の日に
吉野 弘
-----誠実でありたい。
そんなねがいを どこから手に入れた。
それは、すでに
欺くことでしかないのに。
それが突然わかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。
雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけねばならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。
誠実が 誠実を
どうして欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手に負えなくなってしまったかのように
雪は今日も降っている。
雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。
誠実であろうとすればするほど、誠実の重さが誠実でない自分の軽さを気づかせてくれるのかもしれません。誠実であろうとすることは、ある意味で自分の汚れを消そうとする行為なのかもしれません。そのために、純白の雪で覆い尽くさなければならなくなり、降り続く雪のように 軽い誠実の上に新たな軽い誠実を積み重ね続けなければならなくなるのかもしれません。その汚れは、決して消えることはないのだと知りながら。
だからこそ、降り積もる雪は、重く心にのしかかってくるのでしょう。そういった重さと痛みを感じながら、それでも人は誠実に生きようと努めているのかもしれません。
誠実という言葉は美しい響きを持ち、汚れない生き方を指し示す言葉でもあります。しかし、現実に生きる中で誠実で在り続けることは、痛みや苦しさを伴う生き方でもあるのだと思います。自分を厳しく問い続けてきた吉野さんだからこそ、誠実に生きることの難しさが誰よりもよく見え、誰よりも誠実に在ることを大切にされていたのだと思います。
誠実に対する遠さを感じるからこそ、人はやさしくなれるかもしれません。