フランクルは、「夜と霧」〈池田香代子訳〉の中で、『わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ』と語っています。自分の人生を自ら意味づけするのではなく、人生そのものが自分の存在を意味づけしてくれる、ということを語っているように感じます。
死と隣り合わせの過酷な強制収容所生活の中でも、フランクルは、そういった環境の中でも人間としての尊厳を失うことなく生きた人々から多くを学びます。人間ではなくモノとして ただの収容者番号の存在として扱われても、精神の世界は、犯すことはできない聖地であり、苦悩も 死も 受け入れることができるのだということを……。
あなたが人生を待つのではなく、人生があなたを待っている。
この言葉の意味を考えていくと、以前ブログで紹介した 高階杞一さんの詩を思い出してしまいます。
小さな質問
高階杞一
すいーっ と 空から降りてきて
水辺の
草の
葉先に止まると
背筋をのばし
その子は
体ごと
神様にきいた
なぜ ぼくはトンボなの?
神様は
人間にはきこえない声で
その
トンボに言った
ここに今
君が必要だから
まさに、『 ここに今 君が必要だから 』は、トンボの人生にとって 必要なのがトンボ自身であるのだということを語っているのだと思うのです。
今生きているこの場所で、今のこの瞬間に必要とされているのが、あなたなのです。
これは、先のフランクルの言葉:「人生があなたを待っている」という考えにつながっているのではないかと思えるのです。
自分の人生の主役は、自分自身です。かといって自分の判断によって人生は、決められるものではなく、人生そのものがあなたの登場と判断を待ち続けているのだ、ということなのではないかと感じます。それはまた、どんな過酷な運命や環境が待ち受けていても、それと向き合いながら人間としての尊厳を失わず、真摯に生きることの大切さを伝える言葉なのではないかと思うのです。
生きることの意味を問うのではなく、生きることを前提にしての問いの前に、人間は立たされているのかもしれません。
だからこそ、「ここに今 君が必要とされている」ことに、どうこたえていくかが 生きるということなのではないかと 思えるのです。