あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

妻の退院

2010-09-14 07:33:17 | インポート

 先週の金曜日に、妻が退院しました。入院期間は、32日間。その間、毎日のように高速道路を通勤経路のようにして、病院通いをしました。初めのうちの面会場所は、病室か同じ階に設置されてある食堂でしたが、車椅子での自由な移動ができるようになってからは、病院の一階にあるタリーズコーヒーの喫茶店になりました。アイスコーヒーを飲みながらケーキ等を食べ、語り合うことが日課のようになりました。本人にとっても、単調な病院生活の気分転換になったようです。

 おかげさまで、手術後の経過もよく、松葉杖を使っての歩行もできるようになり、退院することができました。手術を心配し、なにかと温かいお心遣いをいただきました皆様方に心より感謝を申し上げます。誠にありがとうございました。

 それにしても、やはり家族は一緒にいてこそ安心できるものですね。今まで家の中にあった喪失感が消え、居るべき人が居ることで、元通りみんなが安心できる状態になりました。

 そこに いつもの 笑顔があり、言葉があり、光があり、温もりがあり、安心がある。

 改めて 妻の存在の大きさを 実感しています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野球観戦<楽天:オリックス戦>

2010-09-12 13:31:06 | インポート

11日に、T小で同僚だった先生方と一緒に野球の応援に行ってきました。

クライマックシリーズへの出場が絶望的で球場は空席も多かったのですが、熱い応援は相変わ

らずでした。選手と観客が一体となった雰囲気は、やはりいいですね。試合は、5対1で楽天の

快勝でした。嶋選手のクリーンヒットで本塁に突入する山崎選手が、覆いかぶさるようにキャッチ

ャーに向かっていった姿が印象的でした。確かに脚力には衰えがあるようですが、その敢闘精

神はまだまだ健在のようです。岩隈投手は、8回まで安定したピッチングを続け0点で相手を抑え

ていたので、完投シーンを見れるかと思ったのですが、9回は小山投手に交替しました。

ヒーローインタビューを受けた選手は、岩隈投手と嶋捕手のバッテリーでした。

結果はどうあれ、最後の試合まで楽天のファンとしての応援は続けていきたいと思います。

球場に足を運んでの応援は、今年は今回の一度だけでした。来年は、応援の機会を増やし、楽

天の飛躍を見守っていきたいと思っています。

楽天の勝利とともに、ビールやマー君弁当もおいしく味わうことができました。

久しぶりに再会したかっての同僚たちも、みんなそれぞれの職場で、変わらず元気に頑張ってい

る様子なので安心しました。

心残りは、同日開催だったジャズフェスの演奏をじっくりと聴けなかったことです。来年は、多様な

ミュージシャンの演奏を味わいに来てみようかなあとも思っています。

スポーツの秋、芸術の秋、読書の秋、食欲の秋といった ~の秋を たっぷりと味わいながら、

心身ともに充実した秋を過ごしていきたいものですね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再び谷川俊太郎の詩集から

2010-09-10 07:12:49 | インポート

        ありがとう

                           谷川  俊太郎

空 ありがとう / 今日も私の上にいてくれて /

曇っていても分かるよ / 宇宙へと青くひろがっているのが /

花 ありがとう / 今日も咲いていてくれて /

明日は散ってしまうかもしれない / でも匂いも色ももう私の一部 / 

お母さん ありがとう / 私を生んでくれて /

口に出すのはてれくさいから / 一度っきりしか言わないけれど /

でも誰だろう 何だろう / 私に私をくれたのは?

限りない世界に向かって私は呟(つぶや)く / 私 ありがとう

         <みんなの谷川俊太郎詩集 ハルキ文庫より>

 いつも頭の上に広がっているのに、そこに在ることを忘れてしまう空。空気のように在ってあたりまえといった感じの存在。でも、確かにいつも上にいてくれて、その明るさと広さと深さで自分が包んでもらっているような感じがする時がありますね。転校していった子に、遠く離れていても空はつながっているからと話したことがあります。同じ空の下で生きているという感じを大切にしたいものだと思います。青い空は、たどりつけない憧れのような思いでもあります。曇っていても、宇宙へと青く広がる空のことを想い描くことのできる自分でありたいものです。

 花への感謝は、バラの花を愛した星の王子様の気持ちと重なります。「だれかが、なん百万もの星のどれかに咲いている、たった一輪の花がすきだったら その人は、そのたくさんの星をながめるだけで、しあわせになれるんだ。そして<ぼくのすきな花が、どこかにある>と思っているんだ。」「ぼくは、あの花のおかげで、いいにおいにつつまれていた。明るい光の中にいた。」※「星の王子様」 サン・テグジュペリ作 ・ 内藤 濯訳、岩波書店刊より

 三連目の母親への感謝は、全く同感です。心の中では、何度も生んでくれてありがとうを語っているつもりなのですが・・・・・・口に出すのは、本当に てれくさいものです。自分が父親になった時にも、母親となった妻に対して、同じような感謝の気持ちを抱いたことを思い出します。自分たちの子を生んでくれてありがとう!・・・この言葉もてれずに伝えることができたかどうか・・・?

 四連目は、私から私への感謝の言葉。最近も、子どもの自殺のニュースを聞き、とても悲しくなりました。辛く悲しいことがあっても、私というものを私自身が認め、好きになれば、死を選ぶことはなかったのではと思います。自分で自分に「ありがとう」と言える私でありたいものです。そうして自分を大切にできるからこそ、他人も心から大切にできるのではないかなと思います。

 自分とかかわるすべての人や 目の前あるすべてのものに、

 心から「ありがとう」と 言える 一日一日を過ごしていきたいものですね。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まどみちおの詩から

2010-09-07 19:21:16 | インポート

ウォーキングのたびに、道端のエノコログサやヌカキビなどの雑草に、たくましさを感じます。

猛暑と雨の降らない日が続いているのに、元気いっぱいに四方八方に伸び、道端の空間を支

配しているその姿に、強い生命力を感じます。

畑のトマトやナスも、これらの雑草にも負けずに、雨が降らなくてもおいしい実を提供してくれて

います。日照りに強い野菜たちなんですね。

とは言うものの、久しぶりの雨は、畑の野菜たちにも大きな元気を与えてくれたようです。

おかげて、先日まいた秋野菜の種も、発芽のスピードを早めそうです。

次に、まどみちおの詩集(植物のうた・銀河社刊)から詩を紹介します。

         ヌカキビ

                  まど みちお

ヌカキビに / かぜが きている 

きていない ほどに / かぜが・・・

きこえていない ほどに / きこえているのは 

せせらぎかしら / コオロギかしら /

ヌカキビに / もう はや きている 

きていない ほどに / あきが・・・

ヌカキビの向こうに、姿は見ることはできませんが、

すきとおった風と 耳をすませば聞こえる声をして 

秋は、もう そこに 来ているんですね。

先日、草刈りをしていて、秋の野草の中でも一番といえるほど 

私の大好きな ミズヒキを見つけました。

背丈のある雑草たちに囲まれ 目立たないように咲いていました。

ひっそりと咲くその姿に、惹かれるのかもしれません。

目に見える色や姿でも、秋は確かにきているようです。

秋を一緒に探してみませんか。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷川俊太郎の詩から

2010-09-06 08:48:54 | インポート

 一昨日の朝、ウォーキングに出かける前に、スダチの木にいるはずのスリム君が<前日の夕

方までは、元気な存在を確認していたのですが>行方不明になってしまいました。

別の場所でサナギ→羽化→アゲハチョウになってくれるといいのですが・・・とても残念です。

自然な状態でアゲハチョウになるプロセスを観察できたらと思っていたのですが・・・。

 このごろの朝の日課は、ウォーキングに出かける前にスダチの木のスリム君の成長振りと無

事を確認することでした。日中はもちろん、夕方もスリム君の無事を確認しては、その日が無

事終わったと安心して過ごす日が続いていたのですが・・・。

 人間の思い通りにならないのが、自然の摂理なのかもしれませんね。アゲハの幼虫も、大自

然の命の連鎖である生態の中で生きているのですから。自然に対する敬虔さを忘れつつあっ

たのかもしれません。自然の流れの中で、動植物をゆったりと見守っていきたいと思います。

      

◎谷川俊太郎の若い十代の頃の詩集(二十億光年の孤独、集英社文庫)から

      日々

ある日僕は思った

僕に持ち上げられないものなんてあるだろうか

次の日僕は思った

僕に持ち上げられるものなんてあるだろうか

暮れやすい日々を僕は

傾斜して歩んでいる

これらの親しい日々が

次々後へ駆け去るのを

いぶかしいようなおそれの気持でみつめながら

無限の可能性に満ちた若い頃の感覚を思い出させる詩です。

持ち上げられるものと持ち上げられないものの見分けができるようになったことが、年をとった

という証拠なのでしょうか。ただ、持ち上げられないものを持ち上げたいと願う思いは、健在で

す。可能性を否定するより肯定する、前向きに傾斜した歩みも維持したいものだと思います。

でも、今は後へ駆け去るものはゆっくりと去っていくものの、その一つ一つへの思いには若い

頃以上に多様な思いが込められているような感じがします。これから先を生きるという構えとこ

れから後を生きるという構えの違いと言えるのでしょうか。たくさんの過去から学んだことやあ

ふれる思い出が、駆け去るものを呼び止めているのかもしれません。

いぶかしいような恐れの気持も、これからの時間に対して柔らかく純粋な感性で向き合うから

こそ感じる若い気持なのかもしれません。

駆け去るものをただ眺めるだけではなく、自分の年齢にふさわしい少しはよい形のものに整え

ながら見送っていきたいものです。

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする