あの青い空のように

限りなく澄んだ青空は、憧れそのものです。

入学式

2013-04-09 14:27:00 | インポート

昨日は、小学校の入学式があり、妻は1年の担任として 子どもたちを迎えました。

幼稚園からもうひとつ上の階段を昇るような、そんな高揚した思いを抱き、これから始まる学校生活に対する期待で胸をふくらませて、子どもたちは入学してきます。この高鳴る思いをまっすぐに受け止め、一緒に楽しい学校生活をつくっていくのが担任としての役目です。真っ白な子どもたちの心のノートに、楽しい思い出がいっぱい書き込まれていくことを願いながら、子どもたちを迎えます。その記念すべき1ページに、子どもたちはどんな思い出を書き込んだのでしょうか。どの子も立派に式に参加していたとのこと。2日目の今日からは、少し肩の力をぬいて、学校の中のあちこちを好奇心旺盛に探検して回っているのではないでしょうか。どんな出来事があったのか、担任としての妻の話が楽しみです。

1年生を担任したころの 子どもたちのことを なつかしく思い出します。

朝、学校に行くと、自分の席に着いたままじっとしている子どもたち。どんなふうに過ごしたらいいのか、とまどい不安でいたのだと思います。外で遊んできていいんだよと声がけすると、ニコッと笑いながら教室を飛び出していく子ども。中には、それでもじっと席に着いたままの子もいて、一緒に散歩に行こうかと誘って手をつなぎ外へ。チャイムが鳴ったら教室へもどる という約束を言い忘れたために、チャイムが鳴ってからあわてて、あちこちで遊んでいる子どもたちに声がけして教室にもどってもらったこともありました。

花を教室に持ってきた子がいて、教室の中まで春がきたみたいだね と言ったら、次の日にたくさんの子が花を持ってきてくれて驚いたことがありました。グループに分かれて給食を食べる時に、それぞれのテーブルに花を飾りました。まるできれいなレストランで食べているような感じだね と子どもたちと話したのを思い出します。いいなあと思うと、すぐに行動にあらわす子どもたちのまっすぐな思いにふれたような気がしました。働くことも大好きで、○○○を手伝ってくれる人がいるかな? と呼びかけると、いつもたくさん手が上がり、人選が大変だったものです。冬の寒い日に 手を真っ赤にして 教室中の雑巾をきれいに洗っている子どもを見た時には、胸が熱くなったものです。

桜吹雪が舞う時には、風に乗って舞い散る花びらつかみをやりました。スルリと手の間をすり抜ける花びらを地面に着くまでの間につかまえるという遊びです。歓声をあげながら花びらを夢中になって追いかける子どもたちの姿を思い出します。

学校生活がスタートした子どもたちにとって、心からあふれるほど 楽しい思い出でいっぱいの 笑顔輝く 毎日でありますように!

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演劇「カミサマの恋」を見て

2013-04-07 17:04:33 | インポート

休憩なしの2時間余りの楽しいひとときでした。思わず涙ぐんでしまう場面もありました。主演の奈良岡朋子さんは、83歳とは思えないほどの軽快で重厚な演技を見せてくれました。

舞台は、青森県津軽市のカミサマの家。奈良岡さんの津軽弁が心地よく響きました。もともと本籍は青森県弘前市で東京育ち。女学校時代に 2年間弘前に疎開した経験があり、その時に津軽弁は身につけたとのこと。

奈良岡さん演じる遠藤道子は、さまざまな悩み事を抱えた人たちの相談相手となり、神様の言葉を伝えながら、相談者の心をときほぐす仕事をしています。

6年間も閉じこもりの生活を続けていた青年に、抱いていた夢を思い出させ、それに向かって生きる道を開いてあげたり、対立する嫁と姑との関係を良好な関係に導いてあげたり、嫁さがしで悩む母と息子に良縁を結んであげたり、東京から家出してきた主婦とその後を追ってきた夫との関係を良い方向へと導いたりします。

そんな道子のもとに、5・6年も連絡のなかった息子の銀治郎が訪れ、東京で働くその娘のしのぶも訪れます。この二人の登場によって道子の過去と、父娘の関係が明らかになります。

道子には、かって 結婚を約束した最愛の人がいて、不慮の事故で亡くなったということ。そんなときに、カミサマの家に赤ちゃんが預けられ、恋人の生まれ代わりと考えた道子が その子の名前を最愛の人と同じ 銀治郎と名づけ 母親となって育てるようになったこと。

銀治郎は、自分の母が実の母親でないことを知って、屈折した心を抱くようになります。やがて結婚し、娘のしのぶが生まれるのですが、最愛の妻に先立たれると、娘を置いて家を出て、独り身のすさんだ人生を送るようになります。そして、腎不全の病気を抱え、生きる希望を失って久しぶりに母のもとを訪れたのでした。妻のもとに行きたいと考えた銀治郎は、母の道子に頼んで仏下がり(死者の声を聞く)をしてもらい、亡き妻の声を耳にします。

道子は、息子が病気にかかり生きる希望さえ失っていることに気づき、家出してきた主婦に亡き妻の身代りとなって銀治郎の世話をしてもらうことを頼みます。そうして銀次郎は、その主婦を妻の生まれ代わりと信じ込み、病院での治療に専念するようになります。やがて、病気が全快しもどってきた時に、銀治郎は娘のしのぶと再会します。銀治郎は、これまで父親として何もしてやれなかったことを詫びます。しかし、しのぶの深く傷ついた心にその思いは届かず、人間の屑だと父を責めたてます。道子は、その責める言葉を強く否定し、家を出た後に娘のことを気遣う父親が、毎月生活費を送り続けてきたことを語ります。道子のもとにしのぶの母親が仏下がりをして語った言葉も、父・娘の間にあった深い心の溝を埋めます。

かんじんな場面で、 道子を通して語るカミサマの言葉や 亡くなった者が仏下がりをして語りかける言葉が、悩んでいる人々の心を癒し、新たな一歩を踏み出す力を生み出していくような印象がありました。それは、また カミサマの声というより 道子という人物がこれまで歩んできた人生の中で身につけてきた 「けっぱれ!」 という 心の声だったのかもしれません。

最後の方で、銀治郎に 道子の最愛の人であった銀治郎が仏下がりをし 道子に向って語りかける場面がありました。 「これからも けっぱって 生きてほしい!」 という 愛する人からのメッセージを受けとった道子の なんとも晴れやかで明るい表情が 心に残りました。

「けっぱれ!」 なんとも力強い 人生の応援歌のような 一言だと思いました。

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詩:「ネロ」 谷川俊太郎詩集より

2013-04-04 20:54:16 | インポート

谷川俊太郎さんの処女詩集「二十億光年の孤独」の中に、「ネロ」という詩が収められています。飼い犬の名前がネロで、2歳で亡くなったその子犬に語りかけるように書かれた詩です。谷川さんが十代だった頃の みずみずしい感性と、ネロに語りかけながら 自らのこれからの生き方を問い直す 純粋な思いに 心惹かれる作品です。

    ネロ

ネロ

もうじき又夏がやってくる

お前の舌

お前の眼

お前の昼寝姿が

今はっきりと僕の前によみがえる

お前はたった二回程夏を知っただけだった

僕はもう十八回の夏を知っている

そして今僕は自分のや又自分のでないいろいろの夏を思い出している

メゾンラフィットの夏

淀の夏

ウィリアムスバーグ橋の夏

オランの夏

そして僕は考える

人間はいったいもう何回位の夏を知っているのだろうと

ネロ

もうじき又夏がやってくる

しかしそれはお前のいた夏ではない

又別の夏

全く別の夏なのだ

新しい夏がやってくる

そして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく

美しいこと みにくいこと 僕を元気づけてくれるようなこと 僕をかなしくするようなこと

そして僕は質問する

いったい何だろう

いったい何故だろう

いったいどうするべきなのだろうと

ネロ

お前は死んだ

誰にも知れないようにひとりで遠くへ行って

お前の声

お前の感触

お前の気持ちまでもが

今はっきりと僕の前によみがえる

しかしネロ

もうじき又夏がやってくる

新しい無限に広い夏がやってくる

そして

僕はやっぱり歩いてゆくだろう

新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ 

春をむかえ 更に新しい夏を期待して

すべての新しいことを知るために

そして

すべての僕の質問に自ら答えるために

ネロと一緒に過ごした時間とネロがいない中で過ごすこれからの時間。時間は一つにつながっているのに、そこにいてほしい大切な存在がいない中で、未来を生きなければならない切なさ。その葛藤の中で、前を向いてこれからの時間を生きていこうとする決意。新しいことを知り、自らの問いに自ら答えるために、踏み出そうする一歩。青春という時を生きる 痛々しいまでの純粋さ。生きることの意味を見出そうとしていた 若い頃のハートを思い出します。

悲しい別れがあっても、その出会いに感謝し 一緒の時間を共に生きたという事実を大切にしながら これからを共に生きる …… そんな 生きる構えの大切さを 改めて詩を読みながら考えることができたように思います。

※今日の夕方、白とピンクの芝桜の苗を クウタの眠る場所に 娘と一緒に植えました。地面の桜と地上の桜が、そこを明るく照らしてくれるような気がします。

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桜の木の下で

2013-04-04 09:31:10 | インポート

今朝、クウタの見送りを家族でしました。庭の一画にある桜の木の下に埋葬しました。あと少しすれば、桜の花も咲き、クウタも満開の桜をながめることができることでしょう。

朝起きると、もしかすると、どこかへ夜遊びにでかけたのでは…と思いながら、クウタを見に行きました。そこにいないことを願いましたが、長い眠りについたままの姿がありました。そのままゆっくりと立ち上がり、パタパタと尻尾を振りだすのではと しばらくは見守っていたのですが……。

いつか別れの時は来るとは想っていたのですが、いざその時がやって来ると やはり寂しさが募ります。13年の年月を家族と共に歩んでくれ、たくさんの思い出を残してくれたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。かけがえのない命の重さと尊さを改めて実感できました。

これからは、桜の木が クウタと一体となって、心を癒してくれることでしょう。四季折々の木の成長や変化を通して 元気に駆けまわる様子や立派なおすわり姿を、想像することができるように思います。これからも共に在ることを感じながら、桜の木を見上げたいと思います。

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愛犬:クウタの死

2013-04-03 20:51:07 | インポート

13年目の春を迎えたところで、我が家の家族の一員でもあった 犬のクウタが亡くなりました。一番世話をし、一番かわいがってあげた二番目の娘が、看取る中 今日の夕方に旅立っていきました。散歩中にふらふらとよろけてしまったりするなど 体調面で心配なところがあったのですが、突然のことでとても残念に思っています。

あれこれ気遣ってきた娘が、一番悲しい思いの中にいるのではないかと思います。娘が小さい頃に飼っていたコロという犬が亡くなった時やリックと名付けて可愛がっていたハムスターが亡くなった時に 娘が流した涙とその時の悲しい表情を思い出しました。大切にかかわってきた分、深い喪失感を抱いてしまうのだと思います。

私にとっても、クウタは大切な存在でした。

出かける時には、行ってくるよと声をかけ、帰って来る時にはおすわりをして迎えてくれるクウタ。「ただいま!」と声をかけると、いつも尻尾がパタパタと動き、その音が小気味よく聞こえてきたものでした。秋に柿の実が実る頃には、一緒に甘柿を味わう柿友でもありました。畑仕事をしている時に、犬小屋の方をのぞくと、こちらの方を向いておすわりしている姿に心が和んだものでした。散歩の時に、たまに私が全力疾走すると、いつも走り負けてしまったものです。

とびきりのおすわりは、前足をきちんとそろえ、背筋を伸ばし、上品な表情で迎える おすわりでした。おいしいものがもらえそうな時やほしいものをもらいたくなった時には、この姿勢になりました。私と同じ食いしん坊の犬でした。

心配させられたのは、無断でよく夜遊びに出かけることでした。上手に鎖をはずして出かけるのです。初めのうちは、どこかで事故にでもあったりしているのではと心配になったりしたものでしたが、帰るべきところをわきまえ朝にはきちんともどってくるのでそれほど心配しないようになりました。ところが、冬のある日に、鎖を付けたまま出かけ、朝になってももどってこない時がありました。心配になって探しに行ったら、なんと近くのビニールハウスの支柱に鎖の一部がからまり、身動きできなくなっていたのを見つけました。無事な姿を見て安心したこともあり、尻尾を振りながら私を見つめるクウタに、思わず笑ってしまったのを思い出します。一緒に帰る時には、どんなに心配したかをこんこんと言い聞かせたりしたのですが……。

明日からは、見慣れた場所に 見慣れた姿がないことに、寂しい思いを感じることだと思います。13年間家族の一員として、楽しい思い出をたくさんつくってくれたクウタに心から感謝したいと思います。そして、安らかに天国で眠れるよう祈りたいと思います。

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     3/11   雪の日のクウタ

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