2008年9月4日(木曜日)
2日の日、「原子力行政を問い直す宗教者の会」が
主催する『08 敦賀全国集会』の
討論Ⅰ(午前中)の部を見に行きました。
表題は「原発と戦争」でした。
4人のパネラーの方と、コーディネーターによる
パネルディスカッションです。
かなり遅れて、会場に着いたのですが、まだ3人目の方が
お話をされているところでした。
おひとりずつのお話にずいぶん時間をかけているんだな・・・
4人目の方が、太田和子さんです。
太田さんは、静かにゆっくりと、一語一語をかみしめるように
ときには、あふれる感情をこらえるかのように話されました。
ご自分のやってこられた反対運動のことや、思いを
切々と語られる太田さんの姿は、
時々涙でかすんで見えなくなりました。
なぜ正しいことを言い続けてきたわたしが、悪者になるのか・・・
なぜ反対運動が立ち消えてゆくのか・・・
太田さんが反対運動を続ける中で、ぶつかった疑問に、
敦賀高校の日本史の故・岡田孝雄先生は、
みんなが「庶民の歴史」を知らないからだと
教えてくれたそうです。
陸の孤島といわれた敦賀半島の先端に点在する漁村の人たちの
歩んできた苦難の歴史を知らないからだと・・・
敦賀3・4号機が建設されるところは、『阿弥陀見浜』です。
この浜は、太田さんにとっては竜宮城だったそうです。
でもそこにも、半農半漁で生きてきたの人たちの
苦渋に満ちた歴史が、横たわっていたのです。
男は漁に出る、女は田んぼをつくる・・・
船でしか農具を運べないような辺鄙な場所で、
女たちが田んぼをつくらなければ、食べていけない暮らし・・・
しかも、男たちが捕ってきた魚を町に運ぶ権利も
売る権利も認められていなかったといいます。
だから田んぼを買ってくれると言われれば、
苦しい生活から逃れられるとしたら、
手放すのは当たり前のこと。
だからこそ、原発はそういった過疎の地が選ばれてきた
ということも、忘れてはならない歴史なのです。
降り積もる雪のように、
夏の終わりの会場にいるわたしたちの心に
太田さんの話は、シンシンと沁み渡りました。
休憩をはさんで、討論が開始されたのですが、
わたしは、少なからず失望をおぼえました。
たぶん、時間的余裕がなかったのかもしれませんが、
パネラーの方の話を受けて、どのように進めていくのかを
まったく考えていなかったというのが、わかったからです。
コーディネーターが、パネラーや会場の参加者に
さて、どうやって進めていきましょうか?
って、聞きますか・・・
しかも、会場の声を聴いて進めることになった後も
何を質問しているのかさえ、わからない人が
延々と10分もしゃべるままにさせておく・・・
加えて、表題の「原発と戦争」という内容とは程遠い
というより、親鸞上人の説話がこれまた延々と続く・・・
やっと最後に、太田さんが戦争の体験を通しての
話をされて、ほっとしたわたしでした・・・
8月30日のプレ企画だった写真展や上映会が
素晴らしかっただけに、3日間に及ぶ全国集会が
残念でなりませんでした。
さて、わたくしも延々と2日のことを
書き連ねたのには、訳があります。
辞任はしたけれど、
まだ首相としての務めはあるはずの福田さん。
熱心に取り組んできたと辞任(おっと、変換ミス)
自認している、アーカイブについての記事を
読んだからなんです。
なんと! 福田さん、2008年9月の辞めちゃったこと
なんかも、1000年先でもわかるようにしたいと言って
笑いをとったとか・・・
やるねぇ・・・役者だわホンマ・・・
選挙のためとはいえ、ここまでやるか! ってぐらい
ネタを提供し、マスコミをひきつけてるとこなんか
どこぞの党より、1枚も2枚も上手でっせ・・・
と、突っ込み入れるためではありません。
国として公文書をきちんと残すことは、とても大切なこと。
ぜひとも、国民がその公文書を隠されることなく
閲覧し、写しをとれるようにしてほしいものです。
それ以上に、庶民の歴史が埋もれたままにならぬように
わたしたち自身が、庶民の歴史を残していく知恵を
働かせることが必要です。
こうやって、ブログを書き続けることは
わたし自身の歴史であり、
敦賀のまちの歴史の一部として残ります。
福田さん、あなたと違って
わたしはあくまでも主観的にではありますがね・・・
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080904-00000054-jij-pol
9月4日12時9分配信 時事通信
福田康夫首相は4日、公文書管理の在り方に関する有識者会議に出席し、
「公文書制度は、国民に政府の情報を正確に提供する民主主義の原点。
真実を知らしめるものでなくてはならない」と強調した。
その上で「2008年9月は急に総理大臣が辞めちゃったとか、
そういうことも含めた日本のありようを、100年、1000年たっても
(公文書の形で)見せてほしい」と述べ、
自らと重ねながら制度充実を訴えた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080904-00000070-mai-pol
<福田首相>「急に辞めちゃったことも」公文書の重要性強調
9月4日18時43分配信 毎日新聞
「政権は間違いなく代わりますけれども、この政策は、
重要政策は変わりません」。
福田康夫首相は4日、政府の「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」
(座長・尾崎護元大蔵事務次官)に出席し、自らの辞任で積み残しとなる
国の公文書管理強化について、自虐的な表現を交えてあいさつした。
公文書管理の強化は、首相の肝いり政策の一つ。
05年3月には公文書館推進議員懇談会を発足させ、
代表世話人を務めたほど思い入れも深い。
首相は「言い出しっぺでありながら、完成を見ない立場でございます」と、
出席した委員一人一人に目を配り、何度も頭を下げて恐縮した。
さらに公文書管理のあり方について
「将来の国民に分かってもらえるようなものを(残したい)。
あの時代は、2008年はどうだったとか……。
急に総理大臣が辞めちゃったとかね」。
脱線気味のあいさつに、委員からは失笑も漏れた。【木下訓明】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080904-00000153-mai-pol
<福田首相>「ぶら下がり」拒否続く 電話問い合わせもNO
9月4日22時53分配信 毎日新聞
突然の辞任表明以来続いている福田康夫首相の
「ぶら下がり取材」拒否は、4日でまる3日となった。
首相が連日、秘書官を通じて内閣記者会に伝える拒否の言葉は
次第に語調が強まり、4日はぶら下がり時間の問い合わせも拒否した。
一方で首相が好む有識者会議などでは、マメにあいさつしている。
一方的な情報発信だけを求める姿勢に、
自ら訴えてきた「国民目線」は感じられない。
「今後やるつもりはない。電話はかけてこなくていいから」。
4日午前、首相秘書官から内閣記者会側に、
ぶら下がりに関する電話での問い合わせも拒む考えが示された。
原則として平日の昼と夕の1日2回、立ったまま記者団の
質問に答える「ぶら下がり取材」について首相は、
辞任表明翌日の2日、秘書官を通じ「退陣表明した以上、
無用な雑音を立てるべきではない」と、拒否する意向を伝えてきた。
毎日新聞を含む翌3日の朝刊各紙で批判されると、
同日には「考えは変わらない。映像、記事にかかわらず、
取材は受けたくない。記事にしないならいいけど」。
首相としては、自民党総裁選をめぐる記者団との質疑が
面白おかしく取り上げられることを避けたい--との思いがあるようだ。
しかし、テーマは総裁選だけでなく、
首相辞任を受け積み残される政策課題の行方など多岐にわたる。
辞意表明したとはいえ、現職首相である以上、説明責任は今でもある。
首相は4日発行の「福田内閣メールマガジン」最終号
「ありがとうございました。福田康夫です」で、
辞任を報告するとともに「厳しいご批判も(中略)政策を進めるための
大きな原動力でありました」と読者に謝意を述べた。
だが、一方通行で自らの思いを伝え、国民の疑問に答えないならば、
「批判に感謝」の言葉もむなしい。【尾中香尚里】
2日の日、「原子力行政を問い直す宗教者の会」が
主催する『08 敦賀全国集会』の
討論Ⅰ(午前中)の部を見に行きました。
表題は「原発と戦争」でした。
4人のパネラーの方と、コーディネーターによる
パネルディスカッションです。
かなり遅れて、会場に着いたのですが、まだ3人目の方が
お話をされているところでした。
おひとりずつのお話にずいぶん時間をかけているんだな・・・
4人目の方が、太田和子さんです。
太田さんは、静かにゆっくりと、一語一語をかみしめるように
ときには、あふれる感情をこらえるかのように話されました。
ご自分のやってこられた反対運動のことや、思いを
切々と語られる太田さんの姿は、
時々涙でかすんで見えなくなりました。
なぜ正しいことを言い続けてきたわたしが、悪者になるのか・・・
なぜ反対運動が立ち消えてゆくのか・・・
太田さんが反対運動を続ける中で、ぶつかった疑問に、
敦賀高校の日本史の故・岡田孝雄先生は、
みんなが「庶民の歴史」を知らないからだと
教えてくれたそうです。
陸の孤島といわれた敦賀半島の先端に点在する漁村の人たちの
歩んできた苦難の歴史を知らないからだと・・・
敦賀3・4号機が建設されるところは、『阿弥陀見浜』です。
この浜は、太田さんにとっては竜宮城だったそうです。
でもそこにも、半農半漁で生きてきたの人たちの
苦渋に満ちた歴史が、横たわっていたのです。
男は漁に出る、女は田んぼをつくる・・・
船でしか農具を運べないような辺鄙な場所で、
女たちが田んぼをつくらなければ、食べていけない暮らし・・・
しかも、男たちが捕ってきた魚を町に運ぶ権利も
売る権利も認められていなかったといいます。
だから田んぼを買ってくれると言われれば、
苦しい生活から逃れられるとしたら、
手放すのは当たり前のこと。
だからこそ、原発はそういった過疎の地が選ばれてきた
ということも、忘れてはならない歴史なのです。
降り積もる雪のように、
夏の終わりの会場にいるわたしたちの心に
太田さんの話は、シンシンと沁み渡りました。
休憩をはさんで、討論が開始されたのですが、
わたしは、少なからず失望をおぼえました。
たぶん、時間的余裕がなかったのかもしれませんが、
パネラーの方の話を受けて、どのように進めていくのかを
まったく考えていなかったというのが、わかったからです。
コーディネーターが、パネラーや会場の参加者に
さて、どうやって進めていきましょうか?
って、聞きますか・・・
しかも、会場の声を聴いて進めることになった後も
何を質問しているのかさえ、わからない人が
延々と10分もしゃべるままにさせておく・・・
加えて、表題の「原発と戦争」という内容とは程遠い
というより、親鸞上人の説話がこれまた延々と続く・・・
やっと最後に、太田さんが戦争の体験を通しての
話をされて、ほっとしたわたしでした・・・
8月30日のプレ企画だった写真展や上映会が
素晴らしかっただけに、3日間に及ぶ全国集会が
残念でなりませんでした。
さて、わたくしも延々と2日のことを
書き連ねたのには、訳があります。
辞任はしたけれど、
まだ首相としての務めはあるはずの福田さん。
熱心に取り組んできたと辞任(おっと、変換ミス)
自認している、アーカイブについての記事を
読んだからなんです。
なんと! 福田さん、2008年9月の辞めちゃったこと
なんかも、1000年先でもわかるようにしたいと言って
笑いをとったとか・・・
やるねぇ・・・役者だわホンマ・・・
選挙のためとはいえ、ここまでやるか! ってぐらい
ネタを提供し、マスコミをひきつけてるとこなんか
どこぞの党より、1枚も2枚も上手でっせ・・・
と、突っ込み入れるためではありません。
国として公文書をきちんと残すことは、とても大切なこと。
ぜひとも、国民がその公文書を隠されることなく
閲覧し、写しをとれるようにしてほしいものです。
それ以上に、庶民の歴史が埋もれたままにならぬように
わたしたち自身が、庶民の歴史を残していく知恵を
働かせることが必要です。
こうやって、ブログを書き続けることは
わたし自身の歴史であり、
敦賀のまちの歴史の一部として残ります。
福田さん、あなたと違って
わたしはあくまでも主観的にではありますがね・・・
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080904-00000054-jij-pol
9月4日12時9分配信 時事通信
福田康夫首相は4日、公文書管理の在り方に関する有識者会議に出席し、
「公文書制度は、国民に政府の情報を正確に提供する民主主義の原点。
真実を知らしめるものでなくてはならない」と強調した。
その上で「2008年9月は急に総理大臣が辞めちゃったとか、
そういうことも含めた日本のありようを、100年、1000年たっても
(公文書の形で)見せてほしい」と述べ、
自らと重ねながら制度充実を訴えた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080904-00000070-mai-pol
<福田首相>「急に辞めちゃったことも」公文書の重要性強調
9月4日18時43分配信 毎日新聞
「政権は間違いなく代わりますけれども、この政策は、
重要政策は変わりません」。
福田康夫首相は4日、政府の「公文書管理の在り方等に関する有識者会議」
(座長・尾崎護元大蔵事務次官)に出席し、自らの辞任で積み残しとなる
国の公文書管理強化について、自虐的な表現を交えてあいさつした。
公文書管理の強化は、首相の肝いり政策の一つ。
05年3月には公文書館推進議員懇談会を発足させ、
代表世話人を務めたほど思い入れも深い。
首相は「言い出しっぺでありながら、完成を見ない立場でございます」と、
出席した委員一人一人に目を配り、何度も頭を下げて恐縮した。
さらに公文書管理のあり方について
「将来の国民に分かってもらえるようなものを(残したい)。
あの時代は、2008年はどうだったとか……。
急に総理大臣が辞めちゃったとかね」。
脱線気味のあいさつに、委員からは失笑も漏れた。【木下訓明】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080904-00000153-mai-pol
<福田首相>「ぶら下がり」拒否続く 電話問い合わせもNO
9月4日22時53分配信 毎日新聞
突然の辞任表明以来続いている福田康夫首相の
「ぶら下がり取材」拒否は、4日でまる3日となった。
首相が連日、秘書官を通じて内閣記者会に伝える拒否の言葉は
次第に語調が強まり、4日はぶら下がり時間の問い合わせも拒否した。
一方で首相が好む有識者会議などでは、マメにあいさつしている。
一方的な情報発信だけを求める姿勢に、
自ら訴えてきた「国民目線」は感じられない。
「今後やるつもりはない。電話はかけてこなくていいから」。
4日午前、首相秘書官から内閣記者会側に、
ぶら下がりに関する電話での問い合わせも拒む考えが示された。
原則として平日の昼と夕の1日2回、立ったまま記者団の
質問に答える「ぶら下がり取材」について首相は、
辞任表明翌日の2日、秘書官を通じ「退陣表明した以上、
無用な雑音を立てるべきではない」と、拒否する意向を伝えてきた。
毎日新聞を含む翌3日の朝刊各紙で批判されると、
同日には「考えは変わらない。映像、記事にかかわらず、
取材は受けたくない。記事にしないならいいけど」。
首相としては、自民党総裁選をめぐる記者団との質疑が
面白おかしく取り上げられることを避けたい--との思いがあるようだ。
しかし、テーマは総裁選だけでなく、
首相辞任を受け積み残される政策課題の行方など多岐にわたる。
辞意表明したとはいえ、現職首相である以上、説明責任は今でもある。
首相は4日発行の「福田内閣メールマガジン」最終号
「ありがとうございました。福田康夫です」で、
辞任を報告するとともに「厳しいご批判も(中略)政策を進めるための
大きな原動力でありました」と読者に謝意を述べた。
だが、一方通行で自らの思いを伝え、国民の疑問に答えないならば、
「批判に感謝」の言葉もむなしい。【尾中香尚里】