はるみのちょっとTea-time

日々の暮らしのなかで感じたこと、市民運動のことなどわたしのことばで、つづります。

ちょっとだけ歴女な気分~

2009-09-04 | つるがのまち~あれこれ~

2009年9月4日(金曜日)
今日は山車(やま)巡行。
秋晴れのもと、気比神宮の杜の緑をバックに
6基の山が勢ぞろいした姿は、華麗かつ勇壮でさながら
歴史絵巻のごとし・・・なんだわ~

今年もカメラを携えたアマチュアカメラマンがわんさか、
山車の周りではシャッターを切る音も途切れることがない。

敦賀の山車の特徴は、人形の顔が能面であることに加え
鎧・甲冑が当時の武士が身に着けていた本物だということ。

豊臣秀吉が「天下一」と名付けた能面師が彫った面もある。

わたしが小学校へあがるかあがらないかのころ、
当時の富貴町にあった「唐人橋」の山車を手放そうという話が
持ち上がった。
早い話、売ってお金に変えようということになったらしい。

大金町の金ヶ辻子山車(かねがずしやま)を*大塚末子さん
15万円で買い取り、修繕しふたたび、敦賀市に寄贈している。
富貴町は40万円で売る算段だったらしい・・・

父・ナオゾウさんは区長の山幸印刷店さんと相談し
敦賀市の文化財に登録してもらうことで、山車を富貴町に
残そうと働きかけたという。

京都の島津人形店のえらいさんに修復のことも相談したところ、
修復に出すと、ホンマモンをすり替えられるから
決して修復には出さないようにと言われたらしい。
文化財として残すなら、なおのこと、そのままの形で保存を
するのが一番正しいとも・・・

幼いながら、わたしはその話合いを間近で聞いていた記憶がある。

祭りが来るたび、山車を見るたび、売り飛ばされなくて
よかったなぁ~といつも思うわたしである。
そして(たぶん)ファザコンのわたしは、ナオゾウさんをちょっとだけ
誇らしく思うのである。

*大塚末子さん・・・
敦賀市出身のファッションデザイナー。
機能的で生活に役立つ「新しいきもの」を創作。
1954年に「大塚末子きもの学院」を設立。


敦賀の山車の起源はさだかではないが、
室町末期には成立したと思われる。
このことは、天正3年(1575年)織田信長の気比社祭礼見物の伝説、
寛政19年(1642年)小浜藩初代藩主酒井忠勝、
寛文3年(1663年)の二代忠直の山車観覧記録からもうかがえる。
江戸時代にあっては、6町ずつに分かれ8月3日~4日に隔年
山車を曳き出していた。

山車は、少ない年でも30基、多い年では50基も曳き出され
賑わったという。
それも敦賀の商家が個人で所有していたというから驚きだ。

近世敦賀港の繁栄をしのぶ重要な歴史的資料であったが、
昭和20年7月12日戦災でその大部分が焼失した。
残されたのは、金ヶ辻子山車(かねがずしやま)
唐人橋山車(どうじんばしやま)
御所辻子山車(ごしょのずしやま)の3基であったが、
近年、東町山車(ひがしまちやま)
観世屋町山車(かんじゃまちやま)
鵜飼ヶ辻子山車(うがいがずしやま)の3基が復元され、
現在に至っている。

町の名前も優雅で粋で、なんて素敵だったんだろう・・・
山車だけでなく、町の名前も残してほしかったわ・・・
と思うわたしである。

明日は、カーニバルが繰り広げられお祭り広場はまた
見物客であふれかえる。

わたしはと言えば、午後から「きらめきみなと館」の
「新内」の演奏会・・・
タミヨさんがチケットを買ったんだけど、
行くことができなくなったので
急きょ、わたしにチケットが回ってきたというわけ。

「新内」のお話はここから~
江戸の粋といわれる「新内節」・・・
その創設者はなんと、敦賀出身!

1717年(享保2年)敦賀市紙屋町(現・元町)に生まれた
高井庄兵衛は江戸にでて、浄瑠璃を学び、当時の
シンガーソングライターとして一世を風靡、
鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)を名乗りました。
若狭掾門下の鶴賀新内がその美声で人気を得たため、
鶴賀節と言われていたのがいつの間にか「新内節」と
呼ばれるようになりました。

いまは亡き、神楽の梶野伸一さん(敦賀落語の会・初代会長)の
尽力によって
鶴賀若狭掾と新内と敦賀市との縁がつながりました。
梶野さんは「新内をきく夕べ」を企画するなど、
新内節の歴史や紹介にも力を注いでこられました。

その梶野さんの遺志をついで「新内節をきく会」も生まれました。

現在、重要無形文化財(人間国宝)の11代目・鶴賀若狭掾師匠は
「つるが大使」も引き受けていただいています。

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