「風流無談」第20回 2009年2月7日付琉球新報朝刊掲載
前々回の本欄で、大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審判決において、梅澤・赤松氏側が出した宮平秀幸証言が〈虚言〉と断じられたこと。さらに、座間味村幹部に「死ぬでない」と言ったという梅澤裕元隊長の供述が、自分に都合よく〈変容と創造〉がなされた記憶による虚構と判断されたこと、などを書いた。
それでは控訴審判決では、座間味島における「集団自決」(強制集団死)についてどのような判断が下されているのだろうか。判決文には次のように記されている。
〈控訴人梅澤は、本部壕で「自決するでない。」などとは命じておらず、かねてからの軍との協議に従って防衛隊長兼兵事主任の助役ら村の幹部が揃って軍に協力するために自決すると申し出て爆薬等の提供を要請したのに対し、要請には応じなかったものの、玉砕方針自体を否定することもなく、ただ、「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」として帰しただけであったと認めるほかはない〉(二一六ページ)
〈村の幹部らが、揃って軍に協力するために自決を申し出たのに対し、部隊長から、決して自決するでないなどとそれまでの玉砕方針とは正反対の指示がなされたのであれば、その命令に反して、そのまま集団自決が実行されたというのは不自然であり…中略…部隊長に帰されて、村の幹部らが従来の方針に従い日本軍の意を体して信念に従って集団自決を決行したものと考える方がはるかに自然である〉(二一六~七ページ)。
判決文によれば、三月二五日の夜に座間味村の幹部らがとった一連の行動、つまり梅澤隊長訪問から「集団自決」にいたる行動は、〈かねてからの軍との協議に従って〉行われたものであり、〈軍に協力するため〉〈それまでの玉砕方針〉に従い、〈日本軍の意を体して〉行われたものだというのである。
慶良間諸島に配置されていた梅澤隊や赤松隊の任務は、沖縄島西海岸に上陸しょうと結集する米軍の艦船に対し、マルレと呼ばれた小型モーターボートに爆雷を積み、体当たり攻撃を行うことだった。もし作戦が成功すれば、米軍は第二波、第三波の攻撃を防ぐためにマルレの出撃基地をつきとめ、破壊しようとするだろう。梅澤・赤松隊の出撃後、米軍が慶良間諸島を攻撃するのは必至だった。
その時、島の住民はどうするか。海に囲まれて逃げる場所は限られ、捕虜になることが許されないとなれば、選択肢は一つしかない。島に残った他の日本軍部隊や防衛隊、朝鮮人軍夫らと一緒に住民も戦い、全滅=玉砕することだ。軍官民共生共死という当時の状況を考えれば、米軍上陸の際は梅澤・赤松隊のあとを追って住民も玉砕すべし、そう方針が立てられるのは自然なことであったろう。
実際には、日本軍の予想に反して、米軍は沖縄島上陸前に慶良間諸島を攻撃し、梅澤・赤松隊は大きな打撃を受けて出撃の機会を逸した。その後、梅澤・赤松隊は陸上での戦闘に移行する。ここで重要なのは、従来の作戦計画が崩れたあと、梅澤隊長や赤松隊長が〈玉砕方針〉からの転換を村の幹部たちに示さなかったことだ。
慶良間諸島において「集団自決」が起こった大きな要因がここにある。座間味村においては、村の幹部たちはそのために〈かねてからの軍との協議に従って〉行動し、〈それまでの玉砕方針〉を実行してしまったのである。
米軍上陸の際には、日本軍の足手まといにならず、かつ米軍に陵辱されないために、男たちはまず女性や子ども、老人の命を絶ち、そのあとに自らの命を絶つこと。日本軍と村の幹部らの間でそのような協議が事前になされ、〈玉砕方針〉が確立されていたからこそ、助役をはじめとした村の幹部たちは、梅澤隊長に弾薬をもらいに行ったのだ。それに対して梅澤隊長がとった態度は、判決文が示す通りである。
〈軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう〉
米軍上陸の直前に、助役の宮里盛秀氏がそう話していたことを、傍で聞いていた妹の宮平春子氏が証言している(〇七年七月六日付沖縄タイムス)。今回の裁判の過程で明らかになったこの証言は、あらかじめ玉砕方針が確立されていて、助役の宮里氏がそれを軍の命令として実行していったことを裏づける。
そこに示されるのは、大本営→第三二軍→梅澤・赤松隊→村の幹部・防衛隊→一般住民という上意下達の縦の構造によって〈玉砕方針〉が実行されていったということだ。縦の構造に組み込まれた村の幹部たちや一般住民にとって、〈玉砕方針〉は行動を規制する強制力を持ち、逆らうことのできない軍の命令としてあった。裁判を通して、「死ぬでない」と言ったという梅澤氏の嘘が明らかになり、座間味村幹部らの行動の理由が明らかにされたのは、大きな意義を持つ。
前々回の本欄で、大江・岩波沖縄戦裁判の控訴審判決において、梅澤・赤松氏側が出した宮平秀幸証言が〈虚言〉と断じられたこと。さらに、座間味村幹部に「死ぬでない」と言ったという梅澤裕元隊長の供述が、自分に都合よく〈変容と創造〉がなされた記憶による虚構と判断されたこと、などを書いた。
それでは控訴審判決では、座間味島における「集団自決」(強制集団死)についてどのような判断が下されているのだろうか。判決文には次のように記されている。
〈控訴人梅澤は、本部壕で「自決するでない。」などとは命じておらず、かねてからの軍との協議に従って防衛隊長兼兵事主任の助役ら村の幹部が揃って軍に協力するために自決すると申し出て爆薬等の提供を要請したのに対し、要請には応じなかったものの、玉砕方針自体を否定することもなく、ただ、「今晩は一応お帰り下さい。お帰り下さい」として帰しただけであったと認めるほかはない〉(二一六ページ)
〈村の幹部らが、揃って軍に協力するために自決を申し出たのに対し、部隊長から、決して自決するでないなどとそれまでの玉砕方針とは正反対の指示がなされたのであれば、その命令に反して、そのまま集団自決が実行されたというのは不自然であり…中略…部隊長に帰されて、村の幹部らが従来の方針に従い日本軍の意を体して信念に従って集団自決を決行したものと考える方がはるかに自然である〉(二一六~七ページ)。
判決文によれば、三月二五日の夜に座間味村の幹部らがとった一連の行動、つまり梅澤隊長訪問から「集団自決」にいたる行動は、〈かねてからの軍との協議に従って〉行われたものであり、〈軍に協力するため〉〈それまでの玉砕方針〉に従い、〈日本軍の意を体して〉行われたものだというのである。
慶良間諸島に配置されていた梅澤隊や赤松隊の任務は、沖縄島西海岸に上陸しょうと結集する米軍の艦船に対し、マルレと呼ばれた小型モーターボートに爆雷を積み、体当たり攻撃を行うことだった。もし作戦が成功すれば、米軍は第二波、第三波の攻撃を防ぐためにマルレの出撃基地をつきとめ、破壊しようとするだろう。梅澤・赤松隊の出撃後、米軍が慶良間諸島を攻撃するのは必至だった。
その時、島の住民はどうするか。海に囲まれて逃げる場所は限られ、捕虜になることが許されないとなれば、選択肢は一つしかない。島に残った他の日本軍部隊や防衛隊、朝鮮人軍夫らと一緒に住民も戦い、全滅=玉砕することだ。軍官民共生共死という当時の状況を考えれば、米軍上陸の際は梅澤・赤松隊のあとを追って住民も玉砕すべし、そう方針が立てられるのは自然なことであったろう。
実際には、日本軍の予想に反して、米軍は沖縄島上陸前に慶良間諸島を攻撃し、梅澤・赤松隊は大きな打撃を受けて出撃の機会を逸した。その後、梅澤・赤松隊は陸上での戦闘に移行する。ここで重要なのは、従来の作戦計画が崩れたあと、梅澤隊長や赤松隊長が〈玉砕方針〉からの転換を村の幹部たちに示さなかったことだ。
慶良間諸島において「集団自決」が起こった大きな要因がここにある。座間味村においては、村の幹部たちはそのために〈かねてからの軍との協議に従って〉行動し、〈それまでの玉砕方針〉を実行してしまったのである。
米軍上陸の際には、日本軍の足手まといにならず、かつ米軍に陵辱されないために、男たちはまず女性や子ども、老人の命を絶ち、そのあとに自らの命を絶つこと。日本軍と村の幹部らの間でそのような協議が事前になされ、〈玉砕方針〉が確立されていたからこそ、助役をはじめとした村の幹部たちは、梅澤隊長に弾薬をもらいに行ったのだ。それに対して梅澤隊長がとった態度は、判決文が示す通りである。
〈軍からの命令で、敵が上陸してきたら玉砕するよう言われている。間違いなく上陸になる。国の命令だから、潔く一緒に自決しましょう〉
米軍上陸の直前に、助役の宮里盛秀氏がそう話していたことを、傍で聞いていた妹の宮平春子氏が証言している(〇七年七月六日付沖縄タイムス)。今回の裁判の過程で明らかになったこの証言は、あらかじめ玉砕方針が確立されていて、助役の宮里氏がそれを軍の命令として実行していったことを裏づける。
そこに示されるのは、大本営→第三二軍→梅澤・赤松隊→村の幹部・防衛隊→一般住民という上意下達の縦の構造によって〈玉砕方針〉が実行されていったということだ。縦の構造に組み込まれた村の幹部たちや一般住民にとって、〈玉砕方針〉は行動を規制する強制力を持ち、逆らうことのできない軍の命令としてあった。裁判を通して、「死ぬでない」と言ったという梅澤氏の嘘が明らかになり、座間味村幹部らの行動の理由が明らかにされたのは、大きな意義を持つ。