早稲田の同期生 Sくんは、福島で大震災を経験しました。
その時の避難生活に基づく彼の言葉は、私たちに多くのことを気づかせてくれます。
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五年前の経験から学んだ事(1)。
トイレ用の水が無く皆が困っていた時、誰かが側溝の用水路を適度に堰き止め、バケツを縄で縛っておいてくれた。その見事さに感動し私は、ポリタンクに川の水を入れ、近所のトイレのタンクに水を入れて廻った。
初期段階では支援の手が及ばないので、一週間自分達の力と工夫で乗り切って下さい。一週間経てば、状況が変わります!
五年前の経験から学んだ事(2)
トイレ用の水を川からバケツで汲んでいたら、いつしか別の川から電動ポンプ(発電機使用)で水を汲み上げ、水を供給する人が現れた。しかも一輪車に大きな甕を乗せ、貸し出していた。これに依り劇的にスピードアップし、多くの家庭に水を届ける事が出来た。
災害現場初期は地域住民の自助努力が一番、一輪車も役に立ちます。創意工夫と協力で、負けないで下さい!
五年前の経験から学んだ事(3)
物流がストップし、若いお母様方は紙オムツが無いのに困っていました。震災一週間程してスーパーが1店舗再開した時、超満員でごった返す中紙オムツに走り寄り、「あったー!」と涙ぐむお母さんもいました。食料品だけでなく、紙オムツの支援も必要です!
五年前の経験から学んだ事(4)
物流がストップし、パンが手に入らなくなって困っている人も多くいました。パンがあっても1人1個というまるで配給の様で、それさえ直ぐに在庫が無くなりました。パンを求めて自転車で動いている時(車はガソリンが手に入らず使えず)、バス通り横に「パンあります」と書かれた紙を持って立っている人あり。案内に従って行ってみると、パン工場で一律一袋1000円で直接販売していました。
パン食の人もいますので、お米の炊き出しだけでなく、パンの支援も必要です!尚、自転車も役に立ちます!
五年前の経験から学んだ事(5)
飲料水が五番目でトイレ用の水を最初に書いたのは、飲料水よりトイレ用の水の方が困ったからです。飲料水は買い置きの飲み物があり、2~3日すると近所で地下水を使っている御宅が飲料水を提供し始めました。更にお蕎麦屋さんも、玄関先の地下水を自由に使わせてくれました。
最初の一週間は地域住民の協力と自助努力、地下水を使っている御宅もある筈です。支援を待たず、御近所の底力で乗り切って下さい!
五年前の経験から学んだ事(6)
今までは避難者以外の困り事。避難者が困っていたのは、寒さとお風呂です。私は川の水を浴槽に入れて何とかしましたが、避難者は民家のお風呂に入れて貰ったりしていました。しかしそれに協力する町内会と協力しない町内会があり、自衛隊の仮設風呂が設営された避難所は市内一箇所だけ。他の避難所の多くは寒い所で風呂に入れない状態、知り合いの温泉旅館を紹介しても、ガソリンが手に入らず折角の温泉にも行けず。
所が福島交通飯坂線の電車だけは動いていて、飯坂温泉の公衆浴場に電車で行っている人はいました。熊本で営業している銭湯がある様ですので、何とかしてそこへ行きましょう!一週間経てば状況が変わりますので、負けないで下さい!日本民族とこの国の底力を信じましょう!
4/17現在 熊本県内で入浴可能な施設一覧 | 熊本銭湯
五年前の経験から学んだ事(7)
余震に備え私は、震災当日は近くの広い駐車場に車を停め、車の中で過ごしました。ガソリンが手に入らずエアコンを使えず寒くて眠れませんでしたが、家の中で眠れる状態ではありませんでした。身の安全が第一です。
その後一ヶ月程服を着たまま自宅一階で寝ましたが、母も同じ状態で、車を玄関先に路駐し、余震の度に要支援の母を抱えて外に出ました。ある時母は、「自分はいいから、お前だけ逃げろ!」と叫んだ事も。
しばらくは余震に備え、安全な屋外の車の中やテントやビニールハウスに寝るのも一方法です!体の不自由な家族がいる場合、いつでもおぶって逃げる気持ちでいましょう!皆自分の家族を守る事で精一杯なので、自分の家族は自分で守りましょう!
五年前の経験から学んだ事(8)
固定も携帯も電話が全く通じず、安否確認が出来なかった。
ガソリンがストップしたので、車で確認に行く事も出来なかった。携帯のショートメールは使えたが当時は利用していない人が多く、携帯を持っていない人も多い(特に高齢者)。
私は最後にNTTの「伝言ダイアル」にメッセージを残したが、これも知らない人が多く実際は機能しなかった。玄関に「無事」と書いた紙を貼っておく事位しか出来なかったが、緊急時の連絡方法を徹底しておく事が重要です。
九州の方々は取り急ぎ、NTT「伝言ダイアル」にメッセージを残すのも一方法です!
五年前の経験から学んだ事(9)
電話が通じなかった事の他に、ガソリンと灯油がストップした事も困りました。今もNHKで、熊本でもガソリン不足が起こっていると報道していました。夜暖を取る為にエアコンを使ったとの事ですが、ガソリンはいつ手に入るか分かりません。五年前福島市は車が殆ど走っておらず、しばらくの間繁華街もゴーストタウンでした。車が使えればどんなに楽だったかと思いますが、ガソリンあっての事です。ガソリンを節約しましょう!
灯油も同様、電気が使えない為暖房は石油ストーブ。しかも石油ファンヒーターは電気が使えず、宝の持ち腐れ。結局使えたのは、電気を使わないタイプの石油ストーブ。
移動手段は自転車、暖房は昔ながらの石油ストーブ。水道が使えないので川の水。結局昔の生活に戻るしかありませんでしたが、それでも何とか生きて行けます。当たり前が当たり前でないと分かり、その日その日を必死で生きました。実は便利なものも便利とは限らず、不便なものが便利な事も。元々便利なものはなかったのであるし、便利なものに頼らず原始的な生活に戻り、工夫して一週間生きて下さい!
五年前の経験から分かった事(10)
自転車で避難所をあちこち見て廻り、「避難所格差」を目の当たりにしました。自衛隊の設営に依る「仮設風呂」に毎日入り、毎食温かい炊き出しを食べているだけでなく、防寒着その他の支援物資が毎日トラックで運ばれて来る避難所。一方ではお風呂も炊き出しもなく、支援物資も届かず広い体育館の冷たい床にじっとしているだけの避難所もありました。
格差の原因は自衛隊の支援があるかないか、避難所近くの町内会の協力があるかないかが大きい。避難所を移転している避難者もいましたが、高齢者や妊婦さん等は命に関わるので、避難所を移転するのも一方法です!
五年前の経験で学んだ事(11)
前投稿(10)の「避難所格差」と関連しますが、仮設風呂が設営されるのは例外中の例外、炊き出しを受けられるのも少数の避難所だけでした。今回熊本の報道で自衛官が炊き出しをしている映像を観て、違和感を覚えました。五年前自衛官が仮設風呂を設営したのは見たものの、炊き出しをする姿は見た事が無かったからです。自衛官が炊き出しをする事を批判する積もりはありませんし、五年前の自衛官の活動には感心と感動をしました。
しかしテレビのその映像を観た瞬間に、他の避難所でもやっているのだろうか?という思いがよぎりました。ネットでは「ここには何もない、支援をしているなど信じられない」という声もありますが、今の時期、支援がない避難所の方が多いのではないかと思います。
所が映像は、どこでもやっている様な印象を与える。そしてそれが不満や不信や嫉妬を招く。それだけでなくこれから支援物資が届く様になると、益々「避難所格差」が増大する様になる、、、(続)
五年前の経験から学んだ事(12)
(11)の続き;先日の投稿で「避難所格差」の原因に触れたが、報道の仕方にも原因があると思う。福島市の情報発信基地は、市内最大の避難所だった「県営吾妻総合体育館」であった。地元の私でさえ何処に避難所があるか分からず、地元の新聞記事でそこが避難所になっている事を知った。そこを知るまでは、偶々町内会長さんに聞いた近所の県立高校やゴーストタウンと化した繁華街のコミュニティーFM前の張り紙で知った、県立高校数校に自転車で行っていただけだった。
ガソリンが手に入る様になり直ぐに訪れた、市内最大の避難所「県営吾妻総合体育館」。あまりの凄さに驚く。全国からパトカーが集結し、全国から自治体職員さんが応援に駆け付け、医療関係者のブースがあり、自衛隊設営の仮設風呂に毎日入り、毎食炊き出しがあり、ソファーがベッド代わりだったり、特別室に居住していたり、学習支援があったり、、、
そして次々にやって来る県外ナンバーのトラック、個人や団体が支援物資を大量に運んで来るのであった。(続)
五年前の経験から学んだ事(13)
(12)の続き;福島市内最大の避難所「県営吾妻総合体育館」には、天皇皇后両陛下や時の総理大臣も訪問される。そしてその都度、体育館前で立ちながらの「記者会見」が行われた。当時の県知事さんも当時の市長さんも一緒に立っていたが、話はしなかった。当時の政権政党の幹事長さん一人だけが話し、それで会見は終わり。私はその一部始終を現場で偶々見ていたが、こういう偶然には以前から偶に出くわす。
今思えば、そこから全国に向けて「大本営発表」をしていたのかも知れない。地元住民さえ避難所が何処にあるのか分からないのだから、県外の人はその時の映像や紙面に依ってその避難所を知ったのであろう。時の政権はそれを狙ったのではあるまいが、結果的に支援物資が一箇所に集中する様になったのであろう。その為に、別の問題も生じる様になる、、、(続)