阪神淡路大震災から20年。
テレビ・新聞で組まれる特集に触れていると、当時の記憶が蘇ってきます。
まずセンバツ高校野球。
聖地 甲子園球場が被災地にあるため、当初は大会開催も危ぶまれました。
しかし、応援団の公共交通機関利用(球場周辺道路での工事関係車両の通行最優先のため)、そしてブラスバンド自粛(被災住民への配慮のため)を条件に開催されました。
ちなみに、優勝は観音寺中央、準優勝は銚子商業でした。
プロ野球では、イチローや田口の在籍していたオリックス・ブルーウェーブが「がんばろうKOBE」のワッペンをユニフォームの袖に付けて、快進撃。
見事にリーグ優勝を達成しました。
また、オールスター戦では、ボビー・バレンタイン監督の呼び掛けに応じて外人選抜vs.日本人ドリームチームというチャリティー試合も行われました。
なお、外人選手に捕手がいなかったため、定詰選手が「ジョー」、大久保選手が「デイブ」と名乗って、外人選抜チームに加わりました。
==========
震災発生当時、私は邦銀の本部で地域開発プロジェクトの審査を担当していました。
自宅で大震災を知り、急ぎ出勤。
すると、まず面会予定のあったデベロッパーや金融機関から次々と予定キャンセルの電話が入ってきました。
どこも自社の被害状況の把握が最優先であり、息の長い案件である地域開発プロジェクトは後回し、というわけです。
次に、私の勤務する邦銀でも、被害状況把握の作業が始まりました。
関西にある自行の支店や行員・家族の状況
取引先の本社・事業所
担保物件の種類と設定金額
融資残高と債権保全状況
リース物件と金額
これらの作業は、銀行本体にとどまらず、関連の信用保証会社・リース会社・抵当証券会社・クレジットカード会社に及びましたし、まだデータベースの電子化が進んでいない時代でしたから、膨大な手作業が発生しました。
※この個人的な経験は、外国銀行への転職後、東日本大震災における初動に大いに役立ちました。
この作業に没頭している時、私の上司が呟きました。
「これで大蔵省にも関西の地域金融機関を潰す大義名分ができたな……」
1995年は、すでにバブル経済が崩壊していて、どこの金融機関も不良債権を抱えて四苦八苦していました。
しかし、まだ大蔵省による「護送船団方式」の金融行政が維持されていた時代。
関西を拠点とする金融機関の中にも、実質的に大蔵省の管理下に入って息を長らえているところがありました。
担保不動産や保有有価証券の処分可能価額も暴落し、債権回収への展望は真っ暗で、大蔵省も日々の資金繰り維持の支援が精一杯。銀行経営の健全化への道筋は全く立っていませんでした。
果たして、それらの金融機関は、私の上司が呟いたとおり、ほどなく整理・統合の対象となり、消滅したのでした。
阪神淡路大震災で、徳政令 すなわち債務の一律免除が行われなかったことも特筆されるべきことです。
このことが、地震大国・日本に対する海外投資家の信頼を高めることに結びつきました。
「ひとたび地震が起きたら借金は棒引き」という国には安心して投資できませんから。
この教訓は東日本大震災の際の政策立案にも引き継がれ、「徳政令」は発布されず、個人債務者再生手続きの枠組みでの対応となりました。
また、民主党政権下での事業仕分けで槍玉にあがった各種の特別会計ですが、この特別会計があったが故に、阪神淡路・東日本の二度の大震災に我が国の損害保険制度が支払い不能に陥ることなく耐えることができたと言われています。
ことさように、リスク管理とは多様な視点からの検討を必要とする実に難しいものです。
2015年の主要課題である原発問題、基地問題を含む国家の安全保障、どちらも高度なリスク管理の領域なんですよね……
テレビ・新聞で組まれる特集に触れていると、当時の記憶が蘇ってきます。
まずセンバツ高校野球。
聖地 甲子園球場が被災地にあるため、当初は大会開催も危ぶまれました。
しかし、応援団の公共交通機関利用(球場周辺道路での工事関係車両の通行最優先のため)、そしてブラスバンド自粛(被災住民への配慮のため)を条件に開催されました。
ちなみに、優勝は観音寺中央、準優勝は銚子商業でした。
プロ野球では、イチローや田口の在籍していたオリックス・ブルーウェーブが「がんばろうKOBE」のワッペンをユニフォームの袖に付けて、快進撃。
見事にリーグ優勝を達成しました。
また、オールスター戦では、ボビー・バレンタイン監督の呼び掛けに応じて外人選抜vs.日本人ドリームチームというチャリティー試合も行われました。
なお、外人選手に捕手がいなかったため、定詰選手が「ジョー」、大久保選手が「デイブ」と名乗って、外人選抜チームに加わりました。
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震災発生当時、私は邦銀の本部で地域開発プロジェクトの審査を担当していました。
自宅で大震災を知り、急ぎ出勤。
すると、まず面会予定のあったデベロッパーや金融機関から次々と予定キャンセルの電話が入ってきました。
どこも自社の被害状況の把握が最優先であり、息の長い案件である地域開発プロジェクトは後回し、というわけです。
次に、私の勤務する邦銀でも、被害状況把握の作業が始まりました。
関西にある自行の支店や行員・家族の状況
取引先の本社・事業所
担保物件の種類と設定金額
融資残高と債権保全状況
リース物件と金額
これらの作業は、銀行本体にとどまらず、関連の信用保証会社・リース会社・抵当証券会社・クレジットカード会社に及びましたし、まだデータベースの電子化が進んでいない時代でしたから、膨大な手作業が発生しました。
※この個人的な経験は、外国銀行への転職後、東日本大震災における初動に大いに役立ちました。
この作業に没頭している時、私の上司が呟きました。
「これで大蔵省にも関西の地域金融機関を潰す大義名分ができたな……」
1995年は、すでにバブル経済が崩壊していて、どこの金融機関も不良債権を抱えて四苦八苦していました。
しかし、まだ大蔵省による「護送船団方式」の金融行政が維持されていた時代。
関西を拠点とする金融機関の中にも、実質的に大蔵省の管理下に入って息を長らえているところがありました。
担保不動産や保有有価証券の処分可能価額も暴落し、債権回収への展望は真っ暗で、大蔵省も日々の資金繰り維持の支援が精一杯。銀行経営の健全化への道筋は全く立っていませんでした。
果たして、それらの金融機関は、私の上司が呟いたとおり、ほどなく整理・統合の対象となり、消滅したのでした。
阪神淡路大震災で、徳政令 すなわち債務の一律免除が行われなかったことも特筆されるべきことです。
このことが、地震大国・日本に対する海外投資家の信頼を高めることに結びつきました。
「ひとたび地震が起きたら借金は棒引き」という国には安心して投資できませんから。
この教訓は東日本大震災の際の政策立案にも引き継がれ、「徳政令」は発布されず、個人債務者再生手続きの枠組みでの対応となりました。
また、民主党政権下での事業仕分けで槍玉にあがった各種の特別会計ですが、この特別会計があったが故に、阪神淡路・東日本の二度の大震災に我が国の損害保険制度が支払い不能に陥ることなく耐えることができたと言われています。
ことさように、リスク管理とは多様な視点からの検討を必要とする実に難しいものです。
2015年の主要課題である原発問題、基地問題を含む国家の安全保障、どちらも高度なリスク管理の領域なんですよね……