教団「二次元愛」

リアルワールドに見切りをつけ、二次元に生きる男の生き様 (ニコニコでは「てとろでP」)

シューティング と 孤独なる戦い

2009-10-07 00:02:14 | シューティング
シューティングとは孤独と戦うものでもある。
ゲームにおける数あるジャンルのうちで最も孤独なる戦いを強いられるものの1つである。

例えばロープレ。
主人公は頼れる仲間とともに巨悪と戦いに挑む。
決して主人公は孤独ではない。

例えば格闘。
主人公は世界最強の座を賭けて相手に挑む。
主人公は1人で戦うのではあるが、フィールドでは決して1人だけではない。

例えば恋愛シミュレーション。
これは孤独と戦うものとは正反対に位置するものであることは明白だ。

シューティングだけは違う。
シューティングだけはこれらのモノとは根本的に違う性質を備えている。

シューティングの背景は千差万別だ。

ある者は決して帰ることのできない深宇宙へと地球最後の希望の星としてたった1人で戦いに赴く者であるかもしれない。
ある者は祖国を焼かれたたった1人の生き残りとして敵に復讐を誓った者であるかもしれない。
ある者は敵の文明に地球を破壊され偶然たった1人生き残ってしまった死に場所を失った者であるかもしれない。

たよれるのは自分だけ。
そこに居るものも自分だけ。
たった1人で、百倍する、いや万倍する武力を誇る敵軍へ絶望的な戦いを挑む。

それがシューティングというものだ。



これをして
「たかがゲーム…」
そう割り切るものもいるかもしれない。

しかし!

「たかがゲーム…」
そう割り切るものは、絶望的な戦力さを誇る敵軍を前にして、決してそれに対峙し続けていることすらできはしない。

ゲーセンでコインを投入する。
筐体よりクレジットを認識した旨の効果音が響く。
1Pのスタートボタンを押し、自ら望んで戦いの幕をあける。

そこから先は、たかがゲームと割り切ることのできない者たちだけが集うことを許された戦場だ。
たかがコイン1枚。
しかしそれに命を賭けて戦う。

人類の脳の処理能力を遥かに凌駕するように思える狂気の弾幕が降り注ぐ。
脳のてっぺんから指の先まで全神経を集中させ、死に物狂いで弾幕を避ける。

死に物狂いにならない者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
たかがゲームとあざ笑う者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
所詮コイン1枚などと安く見る者は決して弾幕を避ける事などできはしない。
そして、たかがゲームたかがコイン1枚に命を賭けて死に物狂いで避けようとする者だけが、狂気の弾幕を全て避けきり、その向こう側にある神の領域のほんのひとかけらを目にすることができるのだ。

ここでいう神の領域とは、宗教的な意味での極楽浄土を意味するものではない。
自己の能力の限界を試され、それにほんの僅かの差でそれを上回り、人類の能力の限界をも超えた何かがさらにその先にあることを意味している。

「たかがゲーム…」
そう割り切ることのできないものだけが、唯一その領域の鱗片をわずかに垣間見る事ができるのだ。

自分が肌で感じたその領域の鱗片、それは決して他の人と感情を共有することなどできはしない。
孤独に屈せず、狂気の弾幕に何度も何度も撃墜されつつも悔し涙をふいてまた1人戦場にに赴き、そしてようやく1人でだけ手に入れることができるものだ。
シューティングは孤独な戦いである。
いったいどこのだれとその領域に踏み込んだ感動を分かち合えるだろうか!?



実際、ゲーセンで自分が弾を避けるのと、家でポテチでも食いながらYouTubeだかニコニコだかのスーパープレイの弾幕避けを見るのとでは、それは天と地ほどの違いがある。

この違いはたとえば・・・
自分が戦国時代に生まれ、足軽として合戦に参戦し、敵兵に殺されかけながら死に物狂いで敵兵を殺すその熱病と恐怖。
そしてそれをエアコンの効いた自宅でポテチでも食いながら大河ドラマで見る人。
これはそれくらいモノが違う。

戦場で死に物狂いにならない者は生き残れない。
ようはシューティングとはそういうものだ。



昨今ではシューティングをやろうという者がめっきり減った。

たかがゲームに死に物狂いになる意味もない。
そして死に物狂いにならないと得られないその先にある何か、たかがゲームと言っているうちは決してそれが存在することにすら気付くことができない。
これは絶対に人と分かち合うことはできない孤独に戦った者だけが得られる代物だ。
だからシューティングのおもしろさは人には理解されない。

それはとっても悲しいことだと思う今日このごろである。